日本国憲法
‥‥朗読 木下倶子(*1)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第二章 戦争の放棄
第九条 戦争の放棄 軍備及び交戦権の否認
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第三章 国民の権利及び義務
第十条 国民の要件
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条 基本的人権の享有
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
【注】(*1)朗読は、妻 倶子によるものです。昔朗読を趣味として習っていた頃、先生に提出するために音声録音したテープが残っていたのでそれを使いました。妻は不治の病のため気管支切開を行い現在では声を失っています。
東京オリンピックの主会場となる新国立競技場の当初の計画が白紙に戻ったようである。結構なことである。しかし私はこの案をそのまま葬り去ってはいけないと思う。どこで見積もり額を誤ったのか、しっかりと検証すべきである。
それにしても、建築業界の「見積り技術」というのは一体どうなっているのだろう。情報処理分野の見積り技術もそれほど立派なものではないが、少なくとも一千億円単位のものが突然二倍になるようなことはない。それでは、もはや“技術”とは呼べない。どんぶり勘定と呼ぶべきであろう。
日本の官僚たちは他人の金(OPM:Other People's Money)だと青天井と思ってしまう傾向がある。しかも、オリンピックのようなビッグ・イベントでは計画が頓挫する可能性はないからこの好機を見逃す筈がない。今回はその度が少し過ぎたのではないか。東日本大震災時の復興予算流用では、我々国民は何度もだまされている。どさくさに紛れて関係のない物(たとえば競技場周辺の施設)まで密かに取り込んで予算を膨らませたのではないかと勘繰りたくもなる。
「見積り技術」ばかりでなく、建築業界での「(予算額も含めての)実現可能性の研究」(Feasibility Study)は一体どうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■
5月から7月にかけて同窓会が目白押しであった。正確に言うと“同窓会”と“同期会”であるが、最後の7月に計画されていたのは高校3年時の“クラス会”だった。10年程前、高校2年時のクラス会に参加して大変楽しい思いをしたので、今回も大いに期待して参加することにした。卒業以来57年ぶりである。昔の仲間たちが私を覚えていてくれるか多少不安な気持ちもあった。
そこで、あらかじめ卒業時の全員写真を見ながら各人の名前と顔を確認しておくことにした。しかし誰が出席するかは当日会場へ行ってみないと分からない。私も、自分の名前がすぐ分かってもらえるようにと専用の名札を胸に着けることにした(こういう会では何時も持参し用いている)。
最近は、幹事さんがあらかじめ紐付きの名札を用意していてくれて、全員がそれを首からぶら下げて会場に入るというスタイルが多いようである。しかし折角の名札が裏返しになって読み取れないこともある。胸に止める名札ならそういう心配は無用であろう。
当日会場へ行ってみると案の定知らない人ばかりのようである。私だけでなくお互いに相手を確認できないで戸惑っている人が多い。受付で渡された出席者の名簿を見ると、私と同じ会社に勤務していた人、中学、高校と一緒だった人、コンピュータ関係の集まりで何度か会っている人などが出席予定になっている。親しい人が結構多いようで少し安心する。しかし何といっても卒業以来初めて再会する人が圧倒的に多い。
席に座ってから周りの人たちと協力し名前と顔を確認し合い、何とかほぼ全員の顔の確認ができた。皆さん、それぞれ素敵に齢を重ねておられるようである。60代だった10年程前のクラス会での経験とはかなり異なっている。こうして見ると、人間は70代になると急速に容姿が変わってしまうような気がしてきた。本人にはそういう自覚はないのが普通だから、他人から見たら私も同様なのであろう。
しかしいろいろと会話を重ね各人のスピーチなどを聞いていると、時間とともに次第に記憶のネットワークがよみがえってくる。少しずつ“現在の顔”と“昔の顔”とが重なり合って、いわば“顔の焦点”が合ってくるのだ。理屈では納得していても、何となく別人(*1)のような雰囲気を感じて壁になっていたものが突然取り払われる瞬間がある。不思議なものである。しかし何故か、女性についてはまったく顔の焦点が合わなかった。
【注】(*1)人間の細胞は毎日約20%が入れ替わっていると言うから本当は別人なのかもしれない。“昔の記憶”は脳細胞から成るネットワーク構造として脳内に保存され、入れ替わることなく受け継がれていくらしい。つまり昔の 記憶だけを共有する別人と考えることもできる。
帰宅後、会場で撮った写真を整理し自作のアプリで編集する作業を行った。編集したものをウェッブ上にアップすれば自分の務め(?)は完了である。写真が欲しい人はそこからダウンロードすればよい。プリントするか否かは本人にまかせる。ただ、ダウンロードする場合は人それぞれ好みの画素数があるから、大中小3種類のファイルから選べるようにしておく。しかし問題は、参加者のほとんどがインターネットをあまり利用していない世代の人たちなのだ。まあ、私のやっている“務め”とは、単なる自己満足に過ぎないのだが。
この作業をしている間に、私は参加者の顔の“今昔”をじっくりと比較する機会を得たのであった(大変失礼ながら)。
元オペラ歌手だった男は、眼光炯々として素晴らしい顔立ちになっていた。信念ととも生きてきたのであろう。“男の顔”は自分でつくるものと言われているが、なるほどと思った。
大学教授として長年活躍してきた男は、その職にふさわしい“穏和な教授”の顔立ちになっていた。企業人から大学教師に転じた私のような男にはとても身に付かない独特の雰囲気を持っている。
中学校の頃から同級で同じコンピュータ業界にいた男は、なぜか卒業以来一度も顔を合わせる機会がなかった。インターネット上に自分の顔写真は出さない主義の人らしい。卒業以来初めて再会し彼の最近の顔を確認できたのは、私にとっては最大の成果であった。
また何年か後に、再び会って“顔の焦点”が合うかどうか試してみたいものである。■