2014年9月1日月曜日

自転車から身を守る法

 5つ折りにできる杖を利用して、自分の肩幅程の長さの棒を用意する。


(私の護身用の杖)
この棒の使い方のコツを、以下に列挙する。

▼普段は右手に下げて持ち、後方から来る自転車に注意を促す。
▼前方から自転車が来たら、できるだけ早い段階で杖を横向きにし、両手でしっかりと保持する。
▼両手で持つ位置はベルトの下あたりがよい。すれ違う際に必要なら上下に保持位置を変えて身を守る。
▼自転車の動きに注意を払うのは当然であるが、決して自転車を走らせている人と視線を合わせてはならない。
▼十分に広い歩道上で自転車1台、歩行者1人の状況であっても決して気を許してはならない。後方の状況によっては、すれ違う直前にお互いに接近せざるを得ない状況になるかもしれないからである。
▼特に子供の運転する自転車は、突然に方向を変えることがあるから注意が必要である。守るべき位置も下になる。

▼このように、自転車の存在には常に厳しく対応するが、歩行者には逆に最優先で進路を譲るよう心がける。

詳しくは、「護身用の杖」を参照されたい。

2014年8月12日火曜日

自転車が怖い

 先日、ウオーキング中に自転車と接触し怪我をしてしまった。
 暑さのため熱中症に対する注意が叫ばれている時期に、何もウオーキングなどしなくても… と言われるのは重々承知しているが、私は毎日運動して汗をかかないと気がすまない性格(たち)なのである。

 多摩川のサイクリングロードを1時間ほど歩いて帰路につき、家の近くの幹線道路沿いの歩道上を歩いているときに事故は起きた。この歩道は幅2メートル以上もある広い道で、普段から自転車もたくさん走っている。私はその道の右側を行儀よく歩いていたのである。向こうからも同じ側を歩いくる人が目に入ったので、遠慮深い(?)私めは早めに進路を中央側へと移すことにした。後ろから来る自転車や人に注意を払いつつ徐々に進路を左側へと移していった。相手とすれ違う間際になって、前方から突然自転車がやってきてすれ違う直前の二人の間をS字に蛇行してすり抜けていったのである。自転車はスピードを出しておりかなり危険な行為ではあったが(よくあることで)何事もなくやり過ごすことができた。しかし次の瞬間、その自転車の陰からもう1台、小学生らしき子供の乗った自転車が現れ、同じスピードで同じようにすり抜けようとした。私の振りだした右手の甲とその自転車の右ハンドルの先端とが激しくぶつかったのである。相手は振りかえりもせず、そのまま走り去ってしまった(親子連れだったのか?)。

 右手を見ると、甲の部分が打撲でみるみる膨れ上がってきている。短時間の間にこれほど急激に腫れあがるのを見るのは2度目の経験であった。1度目はアメリカでの自動車事故のときであったから、それを思い出して精神的にもかなりのショックであった。急いで家に帰り患部を保冷剤で冷やし応急手当を行った。

 それにしても、この程度の打撃でこれほどの怪我になってしまうとは、予想外のことであった。打撲でかなりの内出血をしているように見える。外部からの打撃に対して著しく弱くなっているようだ。齢を取ったせいもあるが、実は私は日頃から抗凝血薬を飲んでいて、血液が固まり難くしておく必要がある身なのである。その結果、切り傷や内出血などの出血ではなかなか血が止まらない。やっかいな身体なのである。もっともっと気を付けて行動しなければと反省した次第である。

 歩道上での自転車の怖さについては、以前「歩道を歩くのが怖い」で述べたことがあるが、後ろからやってくる自転車の怖さについて言及したものであった。しかし最近は前から来る自転車の方が怖い。それも若者だけでなく、女子学生・子供・家庭の主婦の乗る自転車の方がぶつかる頻度が高いのである。その原因は、自転車の荷台に置いてあるもの、あるいは子供を乗せるための補助具等が両側に飛び出していて、それがすれ違いざまにこちらにぶつかるケースが多いからだ。このようなとき、相手はぶつかったという認識がない。ハンドル部分さえ無事に通れば、それより後ろのことは自分には一切関係のないことで御座んす、という訳である。
 自分には責任がないと思うから大抵はそのまま行ってしまう。こちらは腕や肘の辺りに被害を受けるが泣き寝入りするしかない。

 思うに自転車の側からは、通行人というのは“腰の幅”しか意識する必要のない単なる障害物と見ているのではないか。それ以外の空間は全部自分の通れる空間だと思っているふしがある。その結果、自分の自転車のハンドル部分が通過できる隙間さえあれば、絶対にすり抜けられると信じて猛然とその狭い空間に侵入してくるのである。“腰の幅”の外側には腕が振り出される領域があることなど全く予期していないらしい。少なくとも“両肩の幅”を持つ障害物と認識してほしいのである。

 歩道上を歩いているときは自転車が怖くて仕方がない。これからは、両腕の肘から下の部位を衝撃から守る工夫をしなければならない。
 いろいろ思案した結果、家にあった女性用の杖を利用しようと思い娘に相談したところ大反対されてしまった。自転車にぶつかると相手の自転車の方が危険だと言うのである。そうかもしれないが、こちらの命も掛かっているのだから。
 何か良い護身用具(プロテクター)はないものだろうか。軽くて、強固なプロテクターを誰か考案してくれないでしょうか。

2014年7月11日金曜日

号泣県議

 不自然な日帰り出張を繰り返していた兵庫県議が、その政務活動費の詳細を問われた記者会見の場で突然泣き叫ぶ事態となった。
 昔ならローカルな珍事件としてそのまま忘れ去られてしまうところだが、今はインターネットの時代である。その映像があっと言う間に全世界に発信され、更に物議をかもすことになってしまった。何ともはや、日本人として恥ずかしい限りである。話題にするのも躊躇したくなるような出来事であった。

 この県議のことを、各メディアは“号泣県議”と呼ぶことで意志統一されたようであるが、私はこの“号泣県議”という呼び方だけは大変気に入っている。最近の若者達は「号泣」の意味を誤解しているので、それを正すのに絶好の事例が見つかったからである。

 大学の授業で情報倫理を教えているが、リポートを書かせると日本語の意味を取り違えている学生が予想外に多いことに気が付く。このままでは、社会人になったとき恥をかくことになるのではないか。それが心配で、私は授業中にできるだけ機会をとらえては、いろいろな用語の正しい読み方や本来の意味を教えている。

 それらの経験は
  「変な日本語表現(その1)
  「いい加減な日本語力
   「ネット世論
等にまとめられている。

 そこでも紹介したように、最近の若者達は「号泣」という用語をただ「泣く」という意味で気軽に用いているようだ。これは本来は「大声を上げて泣き叫ぶ」ことである。
 これは若者に限らず多くの人が意味を取り違えているように思う。先に、IOC総会の場で東京オリンピックが正式決定された際も、現地取材していた記者の一人が「私も、思わず号泣してしまいました」などとリポートしていたのが今でも私の記憶に残っている。男はそんなに簡単に号泣したりしないものだ。男が号泣してよいのは、自分の親が亡くなったとき(と財布を落としたとき)だけと昔から決まっている(性差別をなくすことを重視する現在では「男は…」の部分は不要であろうが)。

 某国の将軍様が亡くなったとき、国民が競って泣き叫んでいる姿をニュース映像で見たことがあると思う。泣き叫んで悲しみを表現することが忠誠心の証しだと考えている国であるから、国民は皆競って号泣し誰よりも派手に泣き喚くのである。国民性の違いとはいえ、傍から見ていても決して人の心を打つことはない。むしろ異様な光景であると思えてならない。
 今まで私は、この事例を挙げて学生達に「号泣」の意味を説明していたのだが、これからはただ「号泣県議」という固有名詞(?)を出すだけで、万事了解してもらえると確信している。そして、無闇に号泣したりしない立派な大人になろうと努力してくれることであろう。

 ところで、なぜ「泣く」の代わりに「号泣」という表現が使われるようになったのか。その点を少し探求してみようと思う。
 週刊誌の広告などを見ていると「号泣」という語が頻繁に使われているのに気が付く。広告では簡潔な表現が求められるから「泣く」という動詞を使うよりも名詞で止めた方が全体が簡潔になる。「泣く」という意味の名詞で適当なものがなかったので「号泣」が選ばれたのではないか、と私は推測している。その広告を見た若者達は、この「号泣」という表現の方が単に「泣く」と言うよりも格好いいと思ったのであろう。

 そこで「泣く」を意味する名詞を調べてみた。

 涕泣(ていきゅう):涙を流してなく
 嗚咽(おえつ):むせびなく
 欷歔(ききょ):すすりなく
 感泣(かんきゅう):感動してなく
 慟哭(どうこく):声を上げて嘆きなく
 哀哭(あいこく):声を上げて悲しみなく
 

 「泣く」を表現する漢字には声を発するものが多い。単に「涙ぐむ」というやさしい泣き方の名詞は見当たらないようである。私が捜した限りでは、涕泣(ていきゅう)、降泣(こうるい)くらいしかない。見慣れぬものばかりである。
 もっとポピュラーなものはないのかと自分でも考えてみた。そこで思いついたのが「落涙」である。これなら普通に使えると思うが、どうであろうか。

2014年6月26日木曜日

親知らず

 どうやら、長らく眠っていた私めの“親知らず”(第三大臼歯)が、この齢になって急に目を覚まし動き出したようである。

 実は2か月程前、口の中の左上部に口内炎ができてしまった(これは、よくあること)。その口内炎は直ぐ治ったのだが、その中心の部分にどういう訳か小さなポチッとした突起状のものが残ってしまった。2か月程経ってもその状態が変わらないので口腔外科で診てもらうことにした。

 診察してくれた医師は「これは骨ですねぇ~」と言う。つまり骨の部分が出っ張っているのだと言うのだ。予想外の診断結果に、癌だと言われるかもしれないと内心(ちょっぴり)覚悟していたので正直なところホッとしたのである。そこで「安心しました」と言ってそのまま帰ってきてもよかったのだが、どうも何か合点がいかない。骨が出っ張っているのなら以前から気が付いていた筈である。最近出っ張ってきたとしか思えない。そのとき、ふと私は気が付いた。これは親知らずではなかろうかと。

 医師もその可能性はあると私の意見に同意してくれて、早速X線写真を撮って調べてくれた。その結果、可能性は益々高くなってきたのだが、まだ確定できる段階ではない。少し様子を見ましょう、ということになったのである。

 親知らずという歯は、20歳前後に生えてくるのが普通であるという。平均寿命が短かった昔は、子供の親知らずが生えてくる前に親は亡くなってしまうから、親知らずと呼ばれるようになったらしい。

 医師よりも先に「親知らずではないか?」と気が付いたのには実は理由があった。私は歯の手入れは十分にしてきた積りなので、この齢になるまで無事にすべての歯を維持してきている。ただ残念なことに、生来左下の奥歯(第二大臼歯)が1本欠けていた。そのため、対応する左上の奥歯の方が、噛み合う相手がなくて役目を果たすことなくさびしく存在し続けていたのである。

 その歯が、長い年月の間に少しずつ下に伸びてきていた。なぜ伸びてくるのかは分からないが、下からの圧力がないのが最大の原因ではないかと思う。更に悪いことに、下に伸びた歯が少し外側に傾きだしていた。そのことに気が付かなかったので、隣りの第一大臼歯との間が少し開いてきたことにも気が付かなかった。そして両方の歯の間のみがき方が足りなかったのであろう、気が付いたときには虫歯になりかかっていたのである。その虫歯を治療するよりも(どうせ使われていない歯なら)抜いてしまった方がよい、というのが歯科医の判断であった。かくして私めは、生まれて初めて“抜歯”というものを経験することになったのである。そのとき歯医者に言われたのは、この歯の後ろに親知らずがあるから、もしかするとそれが生えてくるかもしれませんよ。そう警告されていたのである。

 親知らずも表に出たかったのであろう。それを邪魔している第二大臼歯を長年上から少しずつ押し続けていたのかもしれない。この齢になって親知らずの抜歯を受けるのかと思うと、気が重くなることである。

 年寄りになると誰でも入れ歯のお世話になるものだが、入れ歯ではなく本物の自分の歯(それも新品の!)を与えられるのだから喜ばなければいけないのかもしれない。高貴な年寄りになったことへのご褒美という風に考えられると良いのであるが。

2014年5月22日木曜日

待ち時間に読む本

 私は外出するとき何時もショルダーバッグに本を一冊入れておく。待ち時間に読むための本である。銀行でATMの行列に並んでいる時や、病院の受付あるいは診療待合室で待っている間などに取り出して読む。待ち時間に本を読んでいると、少なくともその時間を“無駄にはしなかった”ような気分になれるのである(有効に使ったとまでは思わないが)。特に、駅で電車の到着を待っているような時はすぐさま本を取り出して読み始める。慣れてくると瞬時に物語の世界に没入できる。すると、不思議なもので電車は直ぐにやって来る。

 携帯する本は、バッグからの出し入れがしやすい文庫本サイズのコンパクトなものが向いている。更に、頻繁の出し入れに耐えられるよう、あらかじめ丈夫なカバーを掛けておくとよい。
 本の種類は技術書のような難しい本ではなく、血沸き肉躍る面白い内容の本であることが望ましい。この条件さえ満たしていれば、電車は直ぐに来る! それこそ、あっという間にやって来る(これは私が保証する)。

 待ち時間向きの本として私は海外作品のリーガルサスペンス物が一番好きなのだが、最近読んだものでは本屋で偶然に見つけた「素数の音楽(*)という本が最高であった。
  【注】(*)新潮文庫「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ(冨永星訳)

 周知の通り「素数」というのは数学の世界では最も注目度の高いテーマであるから、どちらかと言えば技術書という分類に属する本である。しかし素数の研究に取り組んだ数学者たちの業績、歴史、あるいはその裏にある人間臭い数々のエピソードを読んでいると、面白くて、面白くて、思わずのめり込んでしまうのである。もちろん数式も沢山登場するが(残念ながら1か所だけ数式が間違っている)、意味を理解するのにそれほど苦労することはない。

 著者のデュ・ソートイは、オックスフォード大学数学研究所の教授であり、科学啓蒙という業績により大英帝国勲章を受章している。難しい科学のテーマを分かりやすく教える特技を持っている人らしい。そういう人が書いた本であるから尚更興味深いのである。

 待ち時間に読もうとすると、以前中断した箇所から読み継ぐ際に少し戻ってもう一度読み返す必要に迫られることもある。そうやって復習している間に電車が来てしまい、結局一行も前へ読み進めないまま再び中断しなければならなくなることもある。これは過密ダイヤのせいなのかもしれないが。

 断片的に少しづつ読み進んでいくと、どうしても読了するまでに時間が掛かる。それだけ長く楽しめるとも言えるが、全体的な感銘度や理解度は少し落ちるのではないかと思う。できれば、電車が絶対に来ないところで、もう一度最初からじっくりと読んで見たいと思う。

2014年4月15日火曜日

Windows XP マシンを捨てる?

 Windows XP のサポートが終了するという事態になり、世間の動向に押されて私めも重い腰を上げざるを得なくなった。自分の手持ちのパソコンを見直すことにしたのである。
 普段から、Windows系のパソコンは常に複数台を確保し、非常事態に備えつつ自分の開発環境を守ってきた。現在は主力マシンはWin-7マシンで、補助のマシンとしてWin-XPマシンを充てている。このXPマシンの方を処分しなければならないのだ。Win-8マシンはまだ入手していなかったので、この際消費税が8%になる直前の機会を捉えて買い換えることにした。

 Win-8マシンはタブレット指向で使い難く今まで敬遠していたが、Win-8.1にバージョンアップされ少しは使い勝手も改善されたようである。かくして、私はWin-7マシンとWin-8.1マシンの利用者となった。

 しかし何か割り切れないものがある。自動車や電化製品等で欠陥が明らかになると、普通はリコールされたり、命に関わるような事故が予想される場合は最後の1台まで見付け出して代替品に無償交換するのがメーカー側の務めであるように思う。そう思ってきたから、大量のWin-XPマシンが世の中に存在しているのにソフトウェア会社(MS)側が「もはや、これまで!」とすべて買い替えるよう勧めるキャンペーンを始めたのには正直驚いた。これからは、こういう売り方をするのが主流になるのであろうか。それに対し誰も異論をとなえようとしない。これは少しおかしいのではないか。

 新聞記事では「13年間もサポートしてくれた」とか、TVニュースの女性キャスターが、ふと「無料でソフトを提供してくれればいいのに…」ともらすと(私はまったく同感なのだが)、直ぐさま批判の声が起こったりしている。全員がソフトウェア会社の側に立っているように思える。Windowsというソフトウェアに不具合があり、その作成に携わったソフトウェア会社が「もはやこれ以上は直せない」と言って投げ出してしまったのである。

 一方、それをささえるコンピュータ本体(ハードウェア)の方には何の欠陥もない! コンピュータ会社は、お客が買い替えで新たなコンピュータを沢山買ってくれればよい訳だから、ただ黙っているのが得策であろう。私もコンピュータ会社の一員であったから、その点はよく理解できる。しかし同時に、苦労して造ったマシンが何の欠陥もないのに、ただソフトがないからという理由だけであっさりと捨てられてしまう。この事態を見て悔しい気持ちにならないとしたら、それは開発に携わった技術者として少しおかしいのではないか。
(Win-XPマシン)

 私は不要になったWin-XPマシンを前にして、一人悔しい思いをしている。特にこのマシンは、大学の講義で使うために携帯に便利なようにと超薄型で超軽量のものを選んで買ったので当然高価であった。Win-Vistaマシンとして購入したが、Vista が実用にならないのでXPにダウングレードしたものである。まだ6年しか(!)使っていない。こんなデザインの良いものを、悔しい! 昔の仲間達が造ったものを簡単に捨ててたまるか。何とかこのマシンを使えるようにしたい。私はそう思いつつ思案しているところである。

2014年3月19日水曜日

メダルをかじる

 オリンピックやパラリンピックでのメダル授与式で、メダルをかじるパフォーマンスが話題になっている。私は以前から何故選手が“メダルをかじる”のか理解に苦しんでいたが、その関係の新聞記事を読んでやっと合点がいったのである。どうやらメディア関係者が選手にそういう行為をするよう要求するのが原因であるらしい。しかしメダルをかじる行為が何を意味するのかに言及したものはなかった。

 昔流行った西部劇映画の熱烈なファンなら誰でも知っていることだが、昔は金貨を手に入れたらそれが本物の金であることを確かめる必要があった。その確認のために“咬んで”みるのである。歯型が付く程度に柔らかければ本物の可能性が高いが、固くて歯型が付かなければ間違いなく偽物なのだ。決して“かじって”いる訳ではない。

 そういう習慣があったことを知っていれば、表彰式でメダルを噛む(かじるのではない!)という行為は、それが本物であることを疑っていることになるから甚だ礼を失した行為であるといえよう。ましてや、金ではない(銀メダルや銅メダルの)受賞者にメダルを噛む行為を要求するのはあり得ないことである。

 私は、メディア関係者に以下2点の間違いを指摘したい。
金メダルは“咬む”のは構わないが“かじる”ものではない。
金メダル以外のメダル獲得者にメダルを咬むことを要求するべきではない。