2011年7月16日土曜日

床屋(についての)談義

 私は、最近はよく“1000円床屋”を利用している。高い料金を払って有名理髪店でカットしてもらうほどの立派な頭の持ち主ではないから、自分には身相応と思っている。待たされることもなく、短時間で仕上げてくれるので大変気に入っている。ヘアカットだけで洗髪はしないから時間が掛からないのだ。このタイプの床屋はアメリカでよく利用していたのを思い出す。

 アメリカの床屋での経験は、以前、素歩人徒然「床屋」に書いて紹介したことがあるが、その欄へのアクセスが非常に多いことを以前から不思議に思っていた。「床屋」というごくありふれたタイトルなのに、何故多くの人が読みに来てくれるのか、その理由が分からなかったからである。ところが、ひょんなことからその理由が分かった。「床屋」と「アメリカ」という二つのキーワードを組み合わせて使って検索すると、検索結果のリストのかなり上位にランクされる存在になっていたらしいのである。

 なぜ「床屋」と「アメリカ」の組み合わせが必要になるのか。そこで私が知ったのは次のようなことである。日本人がアメリカへ行って比較的長く滞在すると、当然の結果として男なら誰でも(もちろん、ある種の人を除いて)床屋へ行かねばならなくなる。その時、床屋へ行くにはかなりの勇気と決断を要するという事実である。その苦労話がウエッブ上に沢山掲載されていることを知った。これらは、私の経験とも合致するものばかりであった。この二つのキーワードを使って検索する人が多いという事実が、それを裏付けているとも言えるであろう。

 先の記事「床屋」には書かなかったが、ヘアカットだけで洗髪しないとどうなるか。当然、頭にはカットされた髪の毛の一部(それも、特に短いやつが)が取り残される。理容師は、これを掃除機のような機械に接続されたホースの先で「グォー グォー」ともの凄い音を立てながら吸いとって取り除いてくれるわけだ。取り除くと言っても、それほど丁寧にやってくれるわけではないから(これはアメリカの床屋の話ですぞ)どうしても取り残しが出る。それがチクチクして不快なことこの上ない状態になる。私はあまり身体を動かさないようにして急いで帰宅し、シャワーを浴びて全身から洗い落とすのを習慣としていた。それでも短い毛が下着に付いてしまうとチクチクして、もう一日中、不快な思いをして過ごすのが常であった。

 ところが、日本の1000円床屋ではそういうことがない。日本でも同じように「グォー グォー」と音を立てて吸い取ってくれるのだが、ほとんど取り残しがないのだ。あわてて帰宅してシャワーを浴びる必要などさらさらない。ありがたいことである。これぞ、素晴らしい日本の技術力の差ではないかと思う。ただし、吸いとる機械の方の技術か、カットしてくれた理容師さんの腕の方の技術か、そこのところは定かではない。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「床屋談義」も参考にしてください。

2011年6月27日月曜日

メディアの多様化

 電車が都心の主要な駅を通り過ぎると車内は少し空いてくる。早朝の出勤時間帯を避ければ、空いている座席を見つけるのは比較的容易なようである。私は空いている座席に座り一呼吸置いてから、新聞を取り出して読み始めることにした。
 しばらくして気が付いたのだが、乗客の中で新聞を読んでいる人がほとんどいない。大抵は、ケータイの小さな画面を食い入るように見つめていたり、ボタン操作に励んでいる人ばかりである。車内で新聞を読んでいるのが自分だけの時は、さすがに肩身の狭い思いをすることがある。時々、小型の文庫本等を読んでいる人や参考書を読んでいる学生さんを見つけると、何かほっとするのである。

 昔、毎日通勤していた頃は、電車の中では本や新聞を読んで時間を過ごすのが普通だった。読む物がなければ居眠りをしていたものだ。最近の通勤ラッシュ時の車内の様子は知らないが、多分ケータイを利用して情報入手に努めている人が多いのであろう。

 毎日通勤していた頃、私はその日の朝刊を外に持って出るようなことはしなかった。家族の者が新聞を読むからである。私はと言えば、夜帰宅してから朝刊と夕刊をまとめて読むことにしていた。かなり大変な作業である。ところが、最近は私以外の家族の者が新聞を読まないようになった。日々の出来事はテレビのニュース番組やインターネット経由で知ることができる。家族の者にとって、今まで新聞で一番の役割はテレビ欄を見ることにあったらしい。それが、地デジ化でTVがデジタル化されると、テレビの放映予定などはテレビ画面上に何時でも表示できるようになった。それを利用すれば、新聞のテレビ欄などもはや不要になったのである。かくして、新聞は私だけが読む物へと変わってきた。

 そういう訳で、週に2回の出勤時に、私めも車内でその日の新聞を読むことができるようになったのである。しかし、前述したように、もはや車内は新聞を読む場所ではなくなってしまっていた。読んでいるのが自分だけの時は確かに肩身が狭い。残念なことだ。

 最近、メディアの多様化が進み、大手の新聞もデジタル化した版を有料で公開し始めている。私はその種のものをまだ一度も利用したことがないので軽々にその是非を論ずる積りはない。しかしこれだけは言えると思う。重い情報機器端末を持たされるのだけは御免だ、と。

 今まで、大学の講義のために出勤する時は、いつもかなりの量の資料類を鞄に入れて持っていかねばならなかった。その上に、授業で使うコンピュータとして自分専用のコンピュータを持参していたのである。コンピュータの重さが身に堪えるようになると、私はコンパクトで軽いコンピュータ(大抵は高価である)を購入しなければならなかった。

 ところが、昨年から大学側でコンピュータを用意していてくれるようになったので、自分で持参する必要がなくなった。コンピュータの共用はあまり気が進まないが、重い物を持たなくてすむのだから、かなり助かっている。共用コンピュータを使う際の注意(ウイルス感染などのセキュリティ対策)さえしっかりとしていればよいのである。こうしてやっと重い荷物から解放されたばかりなのに、“メディアの多様化”の影響で再び情報機器端末を持たなければならないとすれば、確かに身に堪えることであろう。私にとって、これは情報機器端末と紙の新聞と、どちらが重いかという問題なのである。私めのような年寄りには、当分の間は、紙の新聞の方が魅力的にうつるのである。

2011年6月10日金曜日

ETを探す方法

 新聞を読んでいたら、地球外生命(ET)を探すことを目的とした米カリフォルニア州での世界最大級のプロジェクトが、資金難から活動の停止に追い込まれているというニュースを見つけた。主な財源は、連邦政府や州政府の補助金だったらしいが、事業仕分けされてしまったのであろう。今時、こんなプロジェクトがまだ生き残っていたのかと驚きの方が先に立つ。

 地球から数千光年あるいは数万光年の距離の中に知的生命体がいないとしたら、その先にいる知的生命体からたとえ反応が返ってきたとしても、それは数千年あるいは数万年後のことになる。こう考えて天文学者達は電波を発信するのをやめ、ひたすら地球外生命体からの電波を受信する立場に方針変更したのである。

 私はこの判断は妥当なものだと思う。しかし私が疑問に思うのは、もしこれが人類にとって“妥当な判断”なら、地球外の知的生命体にとっても同じように“妥当な判断”となるのではないか。

 詳しくは【続・素朴な疑問】「天文学者はなぜ電波を発信しないのだろう?」を参照してください。

2011年5月23日月曜日

古い電子機器の扱い

 先日、テレビ番組の制作企画をしている会社から私の持っているT1100(世界初のノートパソコン)を貸し出してくれないか、という問い合わせがあった。海外向けの機器だったので日本ではなかなか持っている人がいないらしい。持っていても貸し出しには応じてもらえないのだそうである。私は貸し出してもよいと思ったが、テレビ番組で電源を入れて使ってみる試みを考えているらしいのでお断りすることにした。

 古い電子機器は電源を入れても動作しないのが常識である。自分では一度も使わないで、大切に保存してあるところに意味があるのであって、電源をいれて壊されてはかなわない。いずれ、開運!なんでも鑑定団に出そうかと思っていたが、電源が入らないアンティーク品など価値がないと言われそうだからやめておく方が無難であろうか。

2011年5月20日金曜日

返事のできない学生

 最近、名前を呼ばれても返事のできない学生が多い。
 講義中に、授業を活性化させる目的で、学生に対し簡単な質問を発することがある。100名程の大人数ともなると学生の名前と顔を全員覚えている訳ではないので、出席名簿を見ながら適当に名前で指名する。しかし名前を呼んでも反応がない。出席していないのかと思いながらもう一度呼ぶと、やっと、おずおずと、手を肩の辺りにまで上げて、私ですという反応を見せる。これでやっと本人を確認できることになる。この間に声を発することはない。むしろ不思議そうな、そして少し迷惑そうな顔をしていることが多い。そこで、もう一度最初から質問をやり直さなければならない。簡単な質問だから答を得てすぐ本論に入りたいのに、予想外に時間が掛かってしまうことになる。そういう学生が増えてきているのは先刻承知していたが、今年は特に多いようである。

 目上の人から名前を呼ばれたら、すぐさま「ハイ」と応えて反応するのが常識であろう。こういう常識を家庭で親が教えていないらしい。しかも学校では、そういう学生を先生が注意しない。だから社会人になっても、そういう常識、礼儀が身についていない困った大人ができてしまうのである。その結果、大学という社会人になる直前の段階で(企業出身の私めのような先生が)教えてあげなければならない事態になってしまうのである。嘆かわしいことである。

 そこで私は、課題で提出されたレポートを名前を呼びながら個々に返却することにした。今までは一括して教員室前の返却箱に入れておけばよかったのであるが、そうすると他人の評価結果が分かってしまうし、レポートの一部が(特に、成績の良い人のものが)行方不明になったりするので問題があった。そういう背景があったので、今年から手渡しで返却することにしたのである。同時に、名前を呼ばれて返事をしない者には、個々に注意してみることにした。効果があるかどうかは分からないが。

 全員の名前をフルネームで読み上げるのも結構大変な作業である。最近は、読み方が分からない変わった名前の人が多い。自分の名前を誤って読まれると気分の悪いものであるから、私はできるだけ正確に読もうと努力する。名前だけでは男女の区別がつかないものもあるから、男性なら“君”、女性なら“さん”付けで呼び分けるのも結構難しい。先生の方も、もっと勉強しなければいけないようだ。やれやれ…。

2011年4月23日土曜日

見せたくない情報、見せる必要のない情報

 東日本大震災における被害の実情が次第に明らかになっていくにつれて、私は自分にも何かできることはないかと思うようになった。しかしボランティアをするには齢を取り過ぎているので、義援金の寄付をする程度のことしかできない自分が何とももどかしく思われる。
 被害の状況を伝えるテレビ画面を見ながら、私は現場を直接見ることもなく遠くにいてメディアを通じて得た知識だけで被災の実態が分かった様なつもりになるのだけはやめておこうと自戒している。しかし同時に、それとはまったく関係のない“どうでもよいこと”ばかり考えていたのをここに白状しなければならない。以下それについて記しておこうと思う。

・どうでもよいこと1「がれきとは」
 被災地では、大量のがれきの後始末に苦慮しているという。テレビ画面で見る被災地の様子からもその実態が分かるような気がする。ただ、私が知っている“がれき”という言葉の持つ印象とは大分様子が違うようだ。
 がれきとは瓦や小石などのことで“瓦礫”と書くべきところだが、「礫」が常用漢字に含まれないので「がれき」とひらがな表記するようになった。テレビ画面で見る“がれき”は、日本家屋の残骸から生じた木材や壁土、流された自動車、家具など雑多な生活用品で占められているように見える。燃やそうと思えば燃えるものが多い。私の想像するがれきとは、倒壊した建物のコンクリートやレンガの破片などで、燃やしても燃えない物という印象がある。

 最近は“がれき”という言葉は「捨てても構わない物」の意味で用いられているらしい。言葉の持つ意味が時代とともに変わっていくのは、それはそれで仕方のないことだが、ひらがな表示にしないで“瓦礫”という漢字表記のままだったら「割れた瓦がお互いに擦られ、砕かれて小石になった様」が想起され、決してこのように誤用されることはなかったろうと思う。
 つまり、表意文字である漢字で“瓦礫”と書かない(漢字により想起される情報が隠された)ことによって、“がれき”の解釈が柔軟に行えるようになったのである。言葉の表記法というのは実に難しいものである。

・どうでもよいこと2「被害の実態」
 被災地の状況を報せるテレビ画面を見ているうちに、私は実際の状況とは少し違うのではないかと疑問を持つようになった。それは「画面があまりにも整い過ぎている」からである。誤解されることを恐れずにあえて書けば、少し「美し過ぎる」と感じたのである。実際は、もっともっと過酷な状況にあるのではないか。
 先ず、被災者の遺体が発見される場面や、収容される場面が皆無である点だ。たまに生存者が発見される場面(滅多にないが)は放映されるのに、遺体の収容される場面がないので何となく死傷者のいない、しかしそれでいて激しく損壊された災害現場を見ているという印象を与えている。

 実際は、想像を絶する程の過酷な現場なのであろう。そういう過酷な映像は注意深くカットされて“きれいに修正された”場面ばかりが放映されているように思える。
 これを情報隠蔽と言ったら言い過ぎであろう。一般の視聴者に見せるのは望ましくない悲惨な場面もあろう。子供が見たら心に傷を残すような場面もあるであろう。そういう場面はカットするのが普通の判断である。しかし我々大人の視聴者は、画面には出てこないけれど、そういう過酷な現場が存在したことを理解しなければならないと思う。

 つまり、我々の周りには、見せたくない情報、あるいはあえて見せる必要のない情報が溢れている。それらを無分別に公開したら、ウイキリークスの例をあげるまでもなくいろいろと支障が出てくるのは明らかである。しかしどれを公開しどれを非公開にするか、つまり公開の是非を判断するのは大変に難しい。災害現場に限らず、我々の周りには常に、見せてよい情報と見せる必要のない(あるいは、見せない方がよい)情報とがあることを理解すべきである。

 プログラミングの世界ではこれを“情報隠蔽”(information hiding)と言うが、隠蔽と言うと何か悪いことをしているようで気にする人もいるから、ここでは“情報を隠す”と表現しておこう。たとえば、Cプログラムの世界では、

    #include  <stdio.h>

のようにインクルードファイルを指定して(*)、その記述が必須ではあるが初心者は知らなくてもよい情報は別の場所に置いて見えないようにする。つまり、一般の人には見せる必要のないものとして隠してしまい、プログラムを単純にして問題の核心に迫れるようにする。こうやってプログラムを分かりやすく、美しく見せる手段が用意されているのである。
  【注】(*)
   C++ の世界では、
     #include  <iostream>
     using namespace std;
   のように指定する。

 初心者プログラマは、その存在を知らなくても構わないがある程度のプログラミング能力を備えてきたら、当然そういうものの存在を理解し、その内容にも関心を向けるべきであろう。
 これと同じように、我々は大震災の被害状況を伝える(美しく仕上げられた)テレビ画面を見せられても、その裏に隠された被害の実情を正しく読みとる能力を持てるようになりたいものである。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「情報を隠す」も参考にしてください。

2011年3月13日日曜日

ウェッブデータの後始末

 家内が入院して一か月以上になる。手術を受けて何とか危機を乗り越えてくれたようである。手術後の二日目、病室を見舞うとかなり元気になっていて安心したのだが、その瞬間に大地震に襲われた。東日本大震災の始まった瞬間である。

 直ぐに看護師が病室に走り込んで来て、酸素マスクを取り出し必要なときには何時でも装着できるような体勢を取った。しっかりと訓練されているようで心強い。私は壁に寄りかかって自らの身体を支えつつ看護師と一緒に揺れるベッドを押さえていた。看護師は、この病院の建物は耐震設計になっているから大丈夫ですと言ってくれたが、それでも長い時間、不安な思いで激しい揺れに身を任せるしかなかった。

 最近、身辺整理のことが頭を離れないでいる。家族の病気に直面し自分自身も何時病院のお世話になるか分からない身である。病気ばかりでなく、こういった大地震のような災害や交通事故に遭遇し、突然この世におさらばしなければならないことになるかもしれない。私に、もしものことがあれば、多分残された者たち(家族、親族)が何とか事後の整理をしてくれるであろう。しかし私が個人的にインターネット上に構築してきたデータの後始末までは期待できない。かねてから、私はウェッブ上のデータの後始末について、いずれ考えなければいけないテーマだと思っていたのである。東日本大震災に直面したこの機会に、私は本気で考えてみようと思ったのである。

 たとえばホームページが、ある一定期間更新されない状態になると、その旨自動的に表記されるようにしてはどうか。長年、私のホームページ上のエッセイを愛読してくださった見知らぬ多くの方々に、更新できなくなった理由をちゃんと説明しておきたいのである。それができれば、思い残すことが少しは少なくなるであろう。そういう注意を喚起する方式を、HTMLファイル上で考えてみよう。高価なアプリケーションプログラム等を購入しなくても、そのようなプログラムは簡単に作れそうな気がしたのである。何しろ、私めは「昔プログラマ」であることを誇りにしているのだから。

 たとえば、1か月間更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 1か月以上が経過しています。

【注意】
 おそらく、このホームページの著者のアイデァが枯渇してきたためではないかと思います。少し時間的な余裕を与えてあげて、静観するのがよいと思います。アイデァの衰えが回復してきた頃に、また機会があれば訪問してください。

じゃ また / See you.

 6か月以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 6か月以上経過してしまいました。

【お詫び】
 このホームページの著者が怠けている可能性が濃厚です。でも、善意に考えてあげましょう。もしかすると病気で入院中なのかもしれません。入院中で、容易にはインターネットアクセスができない状態なのかもしれません。あるいはアイデァが尽きたのではなく、寿命が尽きつつあるのかもしれません。少し時間をおいて、また訪問してみてください。

じゃ また / See you again.

 更に、1年間以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 もう1年以上経過しています。

【警告】
 このホームページの著者は、もしかすると亡くなっているかもしれません。その場合、このホームページは以後更新されることはありません。閉鎖されることもあり得ます。早めに、書斎内を詳細に見学しておくことをお勧めいたします。
 そろそろ私め(プログラム)も覚悟を決めておく必要がありそうです。実に残念なことであります。

では では / Bye.

 更に、数年間以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 とうとう2年近くが経過してしまいました。

【お礼と報告】
 これはかなり深刻な事態です。おそらく、このホームページの著者の寿命が尽きたものと思われます。生前の著者に対するご厚情に対し、著者に代わり私め(プログラム)からも厚く御礼申し上げます。

 なお、香典を送りたい方は、

 ○○銀行○○支店 普通預金口座 番号 XXXXX

へお振り込みいただければ幸いです。

 ただし、万一、この判断が間違っていた場合(何しろプログラムが判断したことですから充分にあり得ます)送金された香典は返却いたしません。その場合は同額をタイガーマスク(伊達直人)名義で児童養護施設に寄付させて頂きますので、ご容赦いただきたいと思います。

さようなら / Good bye.

 これらを表示するためのアルゴリズム(手順)は、私めのホームページ上に(2011年4月1日付で!!)公開する予定である。関心のある方は利用してみてください。ただし、間違いがあって早々に香典が届いたりしても私めは一切責任は負えませんので自己責任で試みてください。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「身辺整理」も参考にしてください。上記のアルゴリズムが紹介されています。