「説明責任」という言葉がはやっている。政治家ばかりでなくTV・新聞等のメディア上でも盛んに使われている。どうやら、この言葉は敵(あるいは気に入らない相手)を攻撃する時に用いるものらしい。たとえば「説明責任をはたせ!」という形で用いるのが正しい使い方であるようだ。
強制起訴された小沢一郎氏の裁判が行われている最中も、メディアは被告となった小沢氏に対して「説明責任をはたせ!」と攻撃したり、あるいは「説明責任をはたしていない」と非難したりしている。
しかし考えてみると、小沢氏裁判では検察官(正確には検察官役の弁護人)と小沢氏とが一対一で対決する場であって、むしろ検察側に訴追するに足る証拠を提示ことが求められている。検察に「証拠提示責任」があると言ってもよい。小沢氏に「説明責任」を問うのは見当違いではないかと思う。しかし政治家もメディアも盛んに「説明責任」を武器に被告人を攻撃する側に加わっている。ここは黙って「証拠提示責任」がはたされるかどうか待つべきではないか、と思うがどうか。
2011年10月8日土曜日
2011年9月17日土曜日
変な日本語(3) 「檄を飛ばす」
新聞記事を読んでいたら、
『輿石東幹事長は「幹事長室はすべての問題が集中して
くる。心あわせ、力あわせができる議論をしてほしい」
と檄を飛ばした』
という文章に出くわした。また、やっている。「檄を飛ばす」を「激励する」の意味に取り違えているのだ。よくある間違いだが、新聞記者ともあろう者が、このようないい加減な国語力でいいのだろうかとあきれるばかりである。
この「・・・してほしい」という心構えを述べた程度のものは、到底「檄」とは呼べない。何か「行動を起こす」ことを求めているとも思えない。正確な意味も知らずに、気取った表現を使いたかっただけなのであろう。
『輿石東幹事長は「幹事長室はすべての問題が集中して
くる。心あわせ、力あわせができる議論をしてほしい」
と檄を飛ばした』
という文章に出くわした。また、やっている。「檄を飛ばす」を「激励する」の意味に取り違えているのだ。よくある間違いだが、新聞記者ともあろう者が、このようないい加減な国語力でいいのだろうかとあきれるばかりである。
この「・・・してほしい」という心構えを述べた程度のものは、到底「檄」とは呼べない。何か「行動を起こす」ことを求めているとも思えない。正確な意味も知らずに、気取った表現を使いたかっただけなのであろう。
2011年8月21日日曜日
変な日本語(2) 「号泣する」
雑誌の広告などで「号泣する」という見出しをよく見かける。号泣するとは、大声をあげて泣くことであるが、本当に号泣したのか、いささか疑問に思うことが多い。雑誌の読者は、実際に泣いてる場面を見た訳ではないので、その表現が正確なのかどうか確かめようがない。
先日、ある大臣が国会の質疑の最中に、感極まって涙を流す場面を目撃した。すると翌日、メディアはこぞってこれを「号泣した」と報道したのである。この表現は明らかに間違っている。記者の国語力に、いささか疑問を感じる毎日である。こういう間違った使い方が定着してしまって、いずれ「俗語」とか「慣用語」とかの分類で、辞書に掲載されるようになるのであろうか。
先日、ある大臣が国会の質疑の最中に、感極まって涙を流す場面を目撃した。すると翌日、メディアはこぞってこれを「号泣した」と報道したのである。この表現は明らかに間違っている。記者の国語力に、いささか疑問を感じる毎日である。こういう間違った使い方が定着してしまって、いずれ「俗語」とか「慣用語」とかの分類で、辞書に掲載されるようになるのであろうか。
2011年7月28日木曜日
変な日本語(1) 「チガカッタ」
先日ラジオを聞いていたら、出演者の一人が「チガカッタ」と口走った。大の大人が、である。「違っていた」と言いたかったのだろうが、まだ言葉をよく覚えていない幼い子供がよく使う表現法だ。テレビでも一度この間違った表現を使う大人を見たことがある。実に嘆かわしいことだ。幼い日本語表現しかできぬまま、大人になってしまったのであろう。
同じような表現で「キレカッタ」というのもある。これは「切れかかった」の意味ではなく「綺麗だった」という意味で使っているのだ。こういう間違った日本語表現は、お節介かもしれないが、指摘して正してあげないといけないと思う。
同じような表現で「キレカッタ」というのもある。これは「切れかかった」の意味ではなく「綺麗だった」という意味で使っているのだ。こういう間違った日本語表現は、お節介かもしれないが、指摘して正してあげないといけないと思う。
2011年7月16日土曜日
床屋(についての)談義
私は、最近はよく“1000円床屋”を利用している。高い料金を払って有名理髪店でカットしてもらうほどの立派な頭の持ち主ではないから、自分には身相応と思っている。待たされることもなく、短時間で仕上げてくれるので大変気に入っている。ヘアカットだけで洗髪はしないから時間が掛からないのだ。このタイプの床屋はアメリカでよく利用していたのを思い出す。
アメリカの床屋での経験は、以前、素歩人徒然「床屋」に書いて紹介したことがあるが、その欄へのアクセスが非常に多いことを以前から不思議に思っていた。「床屋」というごくありふれたタイトルなのに、何故多くの人が読みに来てくれるのか、その理由が分からなかったからである。ところが、ひょんなことからその理由が分かった。「床屋」と「アメリカ」という二つのキーワードを組み合わせて使って検索すると、検索結果のリストのかなり上位にランクされる存在になっていたらしいのである。
なぜ「床屋」と「アメリカ」の組み合わせが必要になるのか。そこで私が知ったのは次のようなことである。日本人がアメリカへ行って比較的長く滞在すると、当然の結果として男なら誰でも(もちろん、ある種の人を除いて)床屋へ行かねばならなくなる。その時、床屋へ行くにはかなりの勇気と決断を要するという事実である。その苦労話がウエッブ上に沢山掲載されていることを知った。これらは、私の経験とも合致するものばかりであった。この二つのキーワードを使って検索する人が多いという事実が、それを裏付けているとも言えるであろう。
先の記事「床屋」には書かなかったが、ヘアカットだけで洗髪しないとどうなるか。当然、頭にはカットされた髪の毛の一部(それも、特に短いやつが)が取り残される。理容師は、これを掃除機のような機械に接続されたホースの先で「グォー グォー」ともの凄い音を立てながら吸いとって取り除いてくれるわけだ。取り除くと言っても、それほど丁寧にやってくれるわけではないから(これはアメリカの床屋の話ですぞ)どうしても取り残しが出る。それがチクチクして不快なことこの上ない状態になる。私はあまり身体を動かさないようにして急いで帰宅し、シャワーを浴びて全身から洗い落とすのを習慣としていた。それでも短い毛が下着に付いてしまうとチクチクして、もう一日中、不快な思いをして過ごすのが常であった。
ところが、日本の1000円床屋ではそういうことがない。日本でも同じように「グォー グォー」と音を立てて吸い取ってくれるのだが、ほとんど取り残しがないのだ。あわてて帰宅してシャワーを浴びる必要などさらさらない。ありがたいことである。これぞ、素晴らしい日本の技術力の差ではないかと思う。ただし、吸いとる機械の方の技術か、カットしてくれた理容師さんの腕の方の技術か、そこのところは定かではない。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「床屋談義」も参考にしてください。
アメリカの床屋での経験は、以前、素歩人徒然「床屋」に書いて紹介したことがあるが、その欄へのアクセスが非常に多いことを以前から不思議に思っていた。「床屋」というごくありふれたタイトルなのに、何故多くの人が読みに来てくれるのか、その理由が分からなかったからである。ところが、ひょんなことからその理由が分かった。「床屋」と「アメリカ」という二つのキーワードを組み合わせて使って検索すると、検索結果のリストのかなり上位にランクされる存在になっていたらしいのである。
なぜ「床屋」と「アメリカ」の組み合わせが必要になるのか。そこで私が知ったのは次のようなことである。日本人がアメリカへ行って比較的長く滞在すると、当然の結果として男なら誰でも(もちろん、ある種の人を除いて)床屋へ行かねばならなくなる。その時、床屋へ行くにはかなりの勇気と決断を要するという事実である。その苦労話がウエッブ上に沢山掲載されていることを知った。これらは、私の経験とも合致するものばかりであった。この二つのキーワードを使って検索する人が多いという事実が、それを裏付けているとも言えるであろう。
先の記事「床屋」には書かなかったが、ヘアカットだけで洗髪しないとどうなるか。当然、頭にはカットされた髪の毛の一部(それも、特に短いやつが)が取り残される。理容師は、これを掃除機のような機械に接続されたホースの先で「グォー グォー」ともの凄い音を立てながら吸いとって取り除いてくれるわけだ。取り除くと言っても、それほど丁寧にやってくれるわけではないから(これはアメリカの床屋の話ですぞ)どうしても取り残しが出る。それがチクチクして不快なことこの上ない状態になる。私はあまり身体を動かさないようにして急いで帰宅し、シャワーを浴びて全身から洗い落とすのを習慣としていた。それでも短い毛が下着に付いてしまうとチクチクして、もう一日中、不快な思いをして過ごすのが常であった。
ところが、日本の1000円床屋ではそういうことがない。日本でも同じように「グォー グォー」と音を立てて吸い取ってくれるのだが、ほとんど取り残しがないのだ。あわてて帰宅してシャワーを浴びる必要などさらさらない。ありがたいことである。これぞ、素晴らしい日本の技術力の差ではないかと思う。ただし、吸いとる機械の方の技術か、カットしてくれた理容師さんの腕の方の技術か、そこのところは定かではない。
2011年6月27日月曜日
メディアの多様化
電車が都心の主要な駅を通り過ぎると車内は少し空いてくる。早朝の出勤時間帯を避ければ、空いている座席を見つけるのは比較的容易なようである。私は空いている座席に座り一呼吸置いてから、新聞を取り出して読み始めることにした。
しばらくして気が付いたのだが、乗客の中で新聞を読んでいる人がほとんどいない。大抵は、ケータイの小さな画面を食い入るように見つめていたり、ボタン操作に励んでいる人ばかりである。車内で新聞を読んでいるのが自分だけの時は、さすがに肩身の狭い思いをすることがある。時々、小型の文庫本等を読んでいる人や参考書を読んでいる学生さんを見つけると、何かほっとするのである。
昔、毎日通勤していた頃は、電車の中では本や新聞を読んで時間を過ごすのが普通だった。読む物がなければ居眠りをしていたものだ。最近の通勤ラッシュ時の車内の様子は知らないが、多分ケータイを利用して情報入手に努めている人が多いのであろう。
毎日通勤していた頃、私はその日の朝刊を外に持って出るようなことはしなかった。家族の者が新聞を読むからである。私はと言えば、夜帰宅してから朝刊と夕刊をまとめて読むことにしていた。かなり大変な作業である。ところが、最近は私以外の家族の者が新聞を読まないようになった。日々の出来事はテレビのニュース番組やインターネット経由で知ることができる。家族の者にとって、今まで新聞で一番の役割はテレビ欄を見ることにあったらしい。それが、地デジ化でTVがデジタル化されると、テレビの放映予定などはテレビ画面上に何時でも表示できるようになった。それを利用すれば、新聞のテレビ欄などもはや不要になったのである。かくして、新聞は私だけが読む物へと変わってきた。
そういう訳で、週に2回の出勤時に、私めも車内でその日の新聞を読むことができるようになったのである。しかし、前述したように、もはや車内は新聞を読む場所ではなくなってしまっていた。読んでいるのが自分だけの時は確かに肩身が狭い。残念なことだ。
最近、メディアの多様化が進み、大手の新聞もデジタル化した版を有料で公開し始めている。私はその種のものをまだ一度も利用したことがないので軽々にその是非を論ずる積りはない。しかしこれだけは言えると思う。重い情報機器端末を持たされるのだけは御免だ、と。
今まで、大学の講義のために出勤する時は、いつもかなりの量の資料類を鞄に入れて持っていかねばならなかった。その上に、授業で使うコンピュータとして自分専用のコンピュータを持参していたのである。コンピュータの重さが身に堪えるようになると、私はコンパクトで軽いコンピュータ(大抵は高価である)を購入しなければならなかった。
ところが、昨年から大学側でコンピュータを用意していてくれるようになったので、自分で持参する必要がなくなった。コンピュータの共用はあまり気が進まないが、重い物を持たなくてすむのだから、かなり助かっている。共用コンピュータを使う際の注意(ウイルス感染などのセキュリティ対策)さえしっかりとしていればよいのである。こうしてやっと重い荷物から解放されたばかりなのに、“メディアの多様化”の影響で再び情報機器端末を持たなければならないとすれば、確かに身に堪えることであろう。私にとって、これは情報機器端末と紙の新聞と、どちらが重いかという問題なのである。私めのような年寄りには、当分の間は、紙の新聞の方が魅力的にうつるのである。
しばらくして気が付いたのだが、乗客の中で新聞を読んでいる人がほとんどいない。大抵は、ケータイの小さな画面を食い入るように見つめていたり、ボタン操作に励んでいる人ばかりである。車内で新聞を読んでいるのが自分だけの時は、さすがに肩身の狭い思いをすることがある。時々、小型の文庫本等を読んでいる人や参考書を読んでいる学生さんを見つけると、何かほっとするのである。
昔、毎日通勤していた頃は、電車の中では本や新聞を読んで時間を過ごすのが普通だった。読む物がなければ居眠りをしていたものだ。最近の通勤ラッシュ時の車内の様子は知らないが、多分ケータイを利用して情報入手に努めている人が多いのであろう。
毎日通勤していた頃、私はその日の朝刊を外に持って出るようなことはしなかった。家族の者が新聞を読むからである。私はと言えば、夜帰宅してから朝刊と夕刊をまとめて読むことにしていた。かなり大変な作業である。ところが、最近は私以外の家族の者が新聞を読まないようになった。日々の出来事はテレビのニュース番組やインターネット経由で知ることができる。家族の者にとって、今まで新聞で一番の役割はテレビ欄を見ることにあったらしい。それが、地デジ化でTVがデジタル化されると、テレビの放映予定などはテレビ画面上に何時でも表示できるようになった。それを利用すれば、新聞のテレビ欄などもはや不要になったのである。かくして、新聞は私だけが読む物へと変わってきた。
そういう訳で、週に2回の出勤時に、私めも車内でその日の新聞を読むことができるようになったのである。しかし、前述したように、もはや車内は新聞を読む場所ではなくなってしまっていた。読んでいるのが自分だけの時は確かに肩身が狭い。残念なことだ。
最近、メディアの多様化が進み、大手の新聞もデジタル化した版を有料で公開し始めている。私はその種のものをまだ一度も利用したことがないので軽々にその是非を論ずる積りはない。しかしこれだけは言えると思う。重い情報機器端末を持たされるのだけは御免だ、と。
今まで、大学の講義のために出勤する時は、いつもかなりの量の資料類を鞄に入れて持っていかねばならなかった。その上に、授業で使うコンピュータとして自分専用のコンピュータを持参していたのである。コンピュータの重さが身に堪えるようになると、私はコンパクトで軽いコンピュータ(大抵は高価である)を購入しなければならなかった。
ところが、昨年から大学側でコンピュータを用意していてくれるようになったので、自分で持参する必要がなくなった。コンピュータの共用はあまり気が進まないが、重い物を持たなくてすむのだから、かなり助かっている。共用コンピュータを使う際の注意(ウイルス感染などのセキュリティ対策)さえしっかりとしていればよいのである。こうしてやっと重い荷物から解放されたばかりなのに、“メディアの多様化”の影響で再び情報機器端末を持たなければならないとすれば、確かに身に堪えることであろう。私にとって、これは情報機器端末と紙の新聞と、どちらが重いかという問題なのである。私めのような年寄りには、当分の間は、紙の新聞の方が魅力的にうつるのである。
2011年6月10日金曜日
ETを探す方法
新聞を読んでいたら、地球外生命(ET)を探すことを目的とした米カリフォルニア州での世界最大級のプロジェクトが、資金難から活動の停止に追い込まれているというニュースを見つけた。主な財源は、連邦政府や州政府の補助金だったらしいが、事業仕分けされてしまったのであろう。今時、こんなプロジェクトがまだ生き残っていたのかと驚きの方が先に立つ。
地球から数千光年あるいは数万光年の距離の中に知的生命体がいないとしたら、その先にいる知的生命体からたとえ反応が返ってきたとしても、それは数千年あるいは数万年後のことになる。こう考えて天文学者達は電波を発信するのをやめ、ひたすら地球外生命体からの電波を受信する立場に方針変更したのである。
私はこの判断は妥当なものだと思う。しかし私が疑問に思うのは、もしこれが人類にとって“妥当な判断”なら、地球外の知的生命体にとっても同じように“妥当な判断”となるのではないか。
詳しくは【続・素朴な疑問】「天文学者はなぜ電波を発信しないのだろう?」を参照してください。
地球から数千光年あるいは数万光年の距離の中に知的生命体がいないとしたら、その先にいる知的生命体からたとえ反応が返ってきたとしても、それは数千年あるいは数万年後のことになる。こう考えて天文学者達は電波を発信するのをやめ、ひたすら地球外生命体からの電波を受信する立場に方針変更したのである。
私はこの判断は妥当なものだと思う。しかし私が疑問に思うのは、もしこれが人類にとって“妥当な判断”なら、地球外の知的生命体にとっても同じように“妥当な判断”となるのではないか。
詳しくは【続・素朴な疑問】「天文学者はなぜ電波を発信しないのだろう?」を参照してください。
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