2011年12月2日金曜日

転ばない歩き方のコツ

最近つまずいて転びそうになることが多くなった。足を十分に持ち上げないで引きずるように前に出すのが原因なのだ。もっと腿の部分を持ち上げて、前へ振り出すようにして歩かなければいけない。このことに気が付いてからは、意識的に腿を上げて歩くよう努力するようになった。しかし、これがなかなか長続きしない。歩きながら考え事をしていると直ぐ「腿上げ」のことを忘れてしまう。

 そこで、振り出した方の足を着地させる際に、意識的に踵の部分から接地させるようにしてみた。“踵着地”の方が“腿上げ”よりも意識を集中しやすいからである。しかも、踵着地を実行していると自然に腿上げができるような気がしたのである。後ろの足を力強くキックする気持ちで前方に振り出すと、更に効果的であることにも気が付いた。

 ウォーキングの際は常に大股で歩くことが勧められている。私の経験では、考え事をしていても大股で歩くのを忘れることは滅多にない。始終意識していなくても“大股歩行”なら続けられそうに思えた。

 以来、私の歩行習慣は、
 ・大股歩行
 ・踵着地
 ・後足キック
 ・腿上げ
を実践することとなった。

 それにしても、私は生まれて来てこの方「歩き方」について、誰かから教えを受けたという記憶がない。正しい「歩き方」というものは、人生の終盤になって初めて意識的に学ぶ必要が出てくる類いのものなのかもしれない。もっとも「人生の歩き方」の方は、人生のできるだけ早い時期に考えておくべきものであろうが。
【追記】より詳しくは「歩き方について」を参照してください。

2011年11月5日土曜日

免許自転車 と 無免許自転車

 最近、歩道を歩くのが怖い。
 家の近くの幹線道路に沿う歩道には、200メートル程の区間、ひと一人通るのがやっとの狭い部分が続いている。車道とはガードレールで区切られているので安全なのだが、他の歩行者と行き違う際はお互いに身体の向きを変えてすれ違う必要がある。ところが、こんな狭い歩道にも自転車が入ってくるから驚きである。ガードレールがあるので自転車が一時的に車道へ避ける訳にもいかず、歩行者たる私の方が、端によけて自転車をやり過ごす必要が出てくる。自転車の方は、恐縮して挨拶してくれる場合もあるが、大抵は当然の権利を行使しているという表情でそのまま通り過ぎていく場合の方がはるかに多い。

 一番怖いのは、後ろから自転車が来た場合である。気が付かないでいるとベルを鳴らされたりする。場合によっては「邪魔だ」とどやされたりもする。良い年をしたオバチャンから邪魔だと言われたこともあった。私の性格では、こういう時はすぐさま対抗弁論の理論(つまり、言われたら言い返せ)を実践したくなるところだが、喧嘩になるのは明らかだから最近はできるだけ我慢するようにしている。いつまでこの我慢を続けられるか、甚だ疑問ではあるが。

 思えば、自転車が一部の歩道(「自転車通行可」と表示されたものだけ)を走れるように法規改定されたのが間違いのもとだったのではないか。それ以来、すべての歩道を走れると勘違いしている自転車(乗り)ばかりになってしまった。

 自転車で公道を走るのに特別な免許はいらない。ただ二輪車に乗るコツさえ身に付けていれば誰でも走行できることになっている。したがって交通法規を全く知らない自転車(乗り)が、歩道を突っ走ったり、赤信号を無視しての暴走を繰り返したりしている。その挙句に歩行者と接触事故を起こたりしているのである。一方では、しっかりと交通ルールを守って車道の左側を走っている自転車(乗り)も沢山いるのだ。そういう人を見かけると、私は逆に尊敬の目で見てしまうのである。

 私は思うのだが、自動車の運転免許を持っている人が自転車に乗れば、多分交通法規を守る真っ当な自転車(乗り)となるのではないか。自転車で暴走しているのは、多分自動車の運転免許を持っていない人ではないか、と私は推測している。こういう人を「無免許自転車(乗り)」と呼び、真っ当な自転車(乗り)を「免許自転車(乗り)」と呼んで区別すべきではないかと思うが、どうであろうか。

 道幅のある普通の歩道上を歩いている時も、私は後ろから無免許自転車が突然ぶつかってくるのではないかと常に恐れているのである。ホント、怖いよなぁ

2011年10月8日土曜日

変な日本語(4) 「説明責任」

 「説明責任」という言葉がはやっている。政治家ばかりでなくTV・新聞等のメディア上でも盛んに使われている。どうやら、この言葉は敵(あるいは気に入らない相手)を攻撃する時に用いるものらしい。たとえば「説明責任をはたせ!」という形で用いるのが正しい使い方であるようだ。

 強制起訴された小沢一郎氏の裁判が行われている最中も、メディアは被告となった小沢氏に対して「説明責任をはたせ!」と攻撃したり、あるいは「説明責任をはたしていない」と非難したりしている。
 しかし考えてみると、小沢氏裁判では検察官(正確には検察官役の弁護人)と小沢氏とが一対一で対決する場であって、むしろ検察側に訴追するに足る証拠を提示ことが求められている。検察に「証拠提示責任」があると言ってもよい。小沢氏に「説明責任」を問うのは見当違いではないかと思う。しかし政治家もメディアも盛んに「説明責任」を武器に被告人を攻撃する側に加わっている。ここは黙って「証拠提示責任」がはたされるかどうか待つべきではないか、と思うがどうか。

2011年9月17日土曜日

変な日本語(3) 「檄を飛ばす」

 新聞記事を読んでいたら、
 『輿石東幹事長は「幹事長室はすべての問題が集中して
  くる。心あわせ、力あわせができる議論をしてほしい」
  と檄を飛ばした

という文章に出くわした。また、やっている。「檄を飛ばす」を「激励する」の意味に取り違えているのだ。よくある間違いだが、新聞記者ともあろう者が、このようないい加減な国語力でいいのだろうかとあきれるばかりである。
 この「・・・してほしい」という心構えを述べた程度のものは、到底「檄」とは呼べない。何か「行動を起こす」ことを求めているとも思えない。正確な意味も知らずに、気取った表現を使いたかっただけなのであろう。

2011年8月21日日曜日

変な日本語(2) 「号泣する」

 雑誌の広告などで「号泣する」という見出しをよく見かける。号泣するとは、大声をあげて泣くことであるが、本当に号泣したのか、いささか疑問に思うことが多い。雑誌の読者は、実際に泣いてる場面を見た訳ではないので、その表現が正確なのかどうか確かめようがない。

 先日、ある大臣が国会の質疑の最中に、感極まって涙を流す場面を目撃した。すると翌日、メディアはこぞってこれを「号泣した」と報道したのである。この表現は明らかに間違っている。記者の国語力に、いささか疑問を感じる毎日である。こういう間違った使い方が定着してしまって、いずれ「俗語」とか「慣用語」とかの分類で、辞書に掲載されるようになるのであろうか。

2011年7月28日木曜日

変な日本語(1) 「チガカッタ」

 先日ラジオを聞いていたら、出演者の一人が「チガカッタ」と口走った。大の大人が、である。「違っていた」と言いたかったのだろうが、まだ言葉をよく覚えていない幼い子供がよく使う表現法だ。テレビでも一度この間違った表現を使う大人を見たことがある。実に嘆かわしいことだ。幼い日本語表現しかできぬまま、大人になってしまったのであろう。
 同じような表現で「キレカッタ」というのもある。これは「切れかかった」の意味ではなく「綺麗だった」という意味で使っているのだ。こういう間違った日本語表現は、お節介かもしれないが、指摘して正してあげないといけないと思う。

2011年7月16日土曜日

床屋(についての)談義

 私は、最近はよく“1000円床屋”を利用している。高い料金を払って有名理髪店でカットしてもらうほどの立派な頭の持ち主ではないから、自分には身相応と思っている。待たされることもなく、短時間で仕上げてくれるので大変気に入っている。ヘアカットだけで洗髪はしないから時間が掛からないのだ。このタイプの床屋はアメリカでよく利用していたのを思い出す。

 アメリカの床屋での経験は、以前、素歩人徒然「床屋」に書いて紹介したことがあるが、その欄へのアクセスが非常に多いことを以前から不思議に思っていた。「床屋」というごくありふれたタイトルなのに、何故多くの人が読みに来てくれるのか、その理由が分からなかったからである。ところが、ひょんなことからその理由が分かった。「床屋」と「アメリカ」という二つのキーワードを組み合わせて使って検索すると、検索結果のリストのかなり上位にランクされる存在になっていたらしいのである。

 なぜ「床屋」と「アメリカ」の組み合わせが必要になるのか。そこで私が知ったのは次のようなことである。日本人がアメリカへ行って比較的長く滞在すると、当然の結果として男なら誰でも(もちろん、ある種の人を除いて)床屋へ行かねばならなくなる。その時、床屋へ行くにはかなりの勇気と決断を要するという事実である。その苦労話がウエッブ上に沢山掲載されていることを知った。これらは、私の経験とも合致するものばかりであった。この二つのキーワードを使って検索する人が多いという事実が、それを裏付けているとも言えるであろう。

 先の記事「床屋」には書かなかったが、ヘアカットだけで洗髪しないとどうなるか。当然、頭にはカットされた髪の毛の一部(それも、特に短いやつが)が取り残される。理容師は、これを掃除機のような機械に接続されたホースの先で「グォー グォー」ともの凄い音を立てながら吸いとって取り除いてくれるわけだ。取り除くと言っても、それほど丁寧にやってくれるわけではないから(これはアメリカの床屋の話ですぞ)どうしても取り残しが出る。それがチクチクして不快なことこの上ない状態になる。私はあまり身体を動かさないようにして急いで帰宅し、シャワーを浴びて全身から洗い落とすのを習慣としていた。それでも短い毛が下着に付いてしまうとチクチクして、もう一日中、不快な思いをして過ごすのが常であった。

 ところが、日本の1000円床屋ではそういうことがない。日本でも同じように「グォー グォー」と音を立てて吸い取ってくれるのだが、ほとんど取り残しがないのだ。あわてて帰宅してシャワーを浴びる必要などさらさらない。ありがたいことである。これぞ、素晴らしい日本の技術力の差ではないかと思う。ただし、吸いとる機械の方の技術か、カットしてくれた理容師さんの腕の方の技術か、そこのところは定かではない。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「床屋談義」も参考にしてください。