2015年11月18日水曜日

私のコンピュータ遍歴

      ━━ 表示方法への工夫

 以前から、自分がこれまで使ったことのあるコンピュータ類をすべて洗い出しリストアップしてみたいと思っていた。過去のコンピュータの“終活”である。

 コンピュータ(電子計算機と呼んでいた時代もあった)の名称を思い出してはメモに書き止めていたのだが、次第にその写真も集めるようになった。しかしこれがなかなか難しい。インターネット上で探しても期待したようなものが見つからないことが多かった。記憶力の低下もあって名称を正確に思い出せないものもある。

 そうやって何度も挫折しては、またしばらく時間を置いて再び挑戦するということを繰り返してきた。最初にメモを作った時のファイルのタイムスタンプを確認すると「2007-7-29 18:23」となっいるから8年以上経ってしまったことになる。その結果、折角手に入れた写真の出典も曖昧になりつつある。

 うまくまとめられない原因はどこにあるのだろう、と私は考えてみた。
 そもそも、何のためにまとめようとしているのか。それは成果が得られたら自分のホームページ上に掲載したかったのである。それなら「どのように見せるか」の方から考えた方が良いかもしれない。

 見せたいと思っても、他人のコンピュータ遍歴に関心を持つ人はそう多くはあるまい。しかし昔の仕事仲間の同僚たちが見てくれたら、間違いなく関心を持ってくれるであろう。更に表示方法を工夫すれば“もの好きな人”が現れて、少しは関心を持ってくれるかもしれないと考えたのである。

 思うに情報というものは、ただネット上に並べただけでは見てもらえない。その量が大きくなればなるほど、逆に先を読み進もうとする意欲が減退してくるものである。
 私は、博物館や美術館を見てまわっているときの経験で、膨大な展示品をただ順繰りに見てまわっているだけだと、自分が今全体のどの辺りを見ているのかが分からなくなり、そのうちに疲れ果ててしまうことがある。後どのくらいのエネルギーを残しておけばよいのか。目の前の展示品に関心が向かなくなると、ただそれだけで疲れてしまうのである。もしトップダウンに全体を見渡すことができれば、特に関心のある部分だけを集中して見ることもできるはずである。そういった不満を何時も抱えていたので、この機会に何とかその問題に取り組んで、何らかの解決策を見つけたいと思ったのである。

 そこで私は、以前ホームページのサイトマップを作製した時に用いた技術をここで活用し、表示方法を工夫してみようと思い立った。
 このような経緯で表示方法の枠組みが出来あがると、作業は驚くほど急速に進捗するようになった。盛り込みたいコンピュータの種類も増え、忘れていたコンピュータの名称も何故か急に思い出したりするようになった。登録した各コンピュータには自分の“思い出”も書き添えることにしよう。計算するための道具(計算器と呼ぶべきもの)も盛り込んでしまおう、‥‥という具合に色々なアイディアも浮かんできた。

 その結果出来あがったのが「私が使用したことのあるコンピュータの一覧」私のコンピュータ遍歴(my Computer Career)である。もちろんこれで完成ではない。これからも新しいコンピュータが登場するかもしれない。忘れていたコンピュータを思い出し、突然登録したくなるかもしれない。個々のコンピュータには“コメント”を書き込む欄が用意されているので、個々のコンピュータに関して思い出したことがあれば、それを少しずつ時間をかけて書き込んでいこうと思う。まだまだ内容が更新される予定なので、更新履歴が分かるように“バージョン番号”を付すことにした。興味のある方は、是非一度見学に訪れるよう期待しています。もちろん入場無料です。■

2015年10月22日木曜日

男の沽券

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
「男の沽券
       ── 本能とプライドの関係」

として掲載しました。(2015-11-1)

    ━━━ 本能とプライドの関係

 男の“沽券に係わる話”をすることにしよう。
 こう言うと大きなテーマのように聞こえるが、なに、男性が用を足す時、小の場合は立ったままするか、便座に座ってするかの問題である。私の知る限りでは、最近は「座る派」が着実に勢力を伸ばしているのではないかと思う。しかし「立ち派」もその姿勢を崩さず、頑迷な‥‥ぃゃ頑強な(と表現しておこう)保守勢力として存在し続けているのもまた事実である。

 最近の実験結果から得られたデータによれば「立ち派」によるトイレの汚れが想像以上に酷いことが明確になってきている。しかし、その事実を知っても世の男性達の多くは「自分は今まで通り」と「立ち派」にこだわる傾向がある。「男のプライド」を守ろうとしているのだ。

 斯く言う私も「男のプライド」を守っていた時期もあったが、12年程前から「座る派」に転じている。この時期を明確に覚えている理由は、家内に難病の兆候が出始めた頃であり、それ以後私はアイロン掛けとトイレ掃除とを自らやることにしたからである。

 トイレ掃除をするようになって、私はその汚れの酷さに驚いた。当時私は家内との二人暮らしだったから、汚れの原因が私にあることは明白であった。そして掃除をする者が考える自然の成り行きとして、まずは汚さないようにするのが第一だと思うようになったのである。私は結婚以来、家内からトイレの使い方について一言も注意を受けたことがない。ずっと我慢し、黙って掃除をしてくれていたのである。申し訳なくて頭の下がる思いをしている。そういう次第で、この問題が広く論じられるようになるかなり前から、私はトイレの汚れを意識し「座る派」を実践していたのである。

 「立ち派」を主張する男性を見ると、私は「男のプライド」というものを理解できるから、別段批判する気は起らない。ただ「あぁ この人は普段からトイレ掃除をしたことがない人なんだ」と思うだけである。自分で掃除をするようになれば、「立ち派」を続けることは絶対にありえないと信じるからである。

 今日も私は「座る派」を実践しつつ、つくづくと考えてみた。我々人類を造られた創造主様は、いったいどのような意図を持って我々の身体を設計されたのであろう。つまり男性が排尿する時の姿勢は「しゃがみ派」、「座り派」、「立ち派」のいずれを前提にしていたのかという点である。人類がその後、洋風の便器なるものを発明し座って用を足すようになると予想していたとは思えないから、多分「しゃがみ派」と「立ち派」のいずれかを考慮していたのではないかと思う。

 恐れ多くも創造主様は、女性は「しゃがみ派」男性は「立ち派」を前提としたと考えるのが自然であろう。私は体験的にも「座る派」はありえないと思う。実は、男は座ると尿が少し出にくくなるのである。慎み深い私めは、これ以上は詳しく書かないことにする。

 私は外出時に駅の公衆トイレなどを利用することがあるが、そういう時は躊躇することなく「立ち派」に変身してしまう。この日和見的「立ち派」としての経験と合わせ考えるとき、「立ち派」の利点は排尿時に重力をうまく利用している点にあることが分かる。尿の切れがよくなるからである。慎み深い私めは、これ以上は‥‥(分かったよ!)。

 しかし、これはあくまでも私の体験に基づく考察であるからして、説得力に欠ける所があるかもしれない。しかも他の文献類でこういう説を唱えているのを見たことがないから猶更である。しかし犬の所作を見ている人なら納得してもらえると思うが、雌犬は「しゃがみ派」であり、雄犬は必ず「片足上げ派」である。犬の創造主はしっかりと区別して設計しているのだ。そして、彼ら犬達は本能にしたがって創造主の意図を正しく理解しているように見える。
 犬の創造主と人類の創造主が同じなのかどうかは分からないが、恐れ多くも創造主様は人類もうまく設計してくださっているに違いない。

 人類にそのことを代々間違いなく伝えていくには(取説などないから)本能として身に付けさせる必要がある。その結果、男は「立ち派」ということを本能的に知っているのである。そして男たちは、それを「男のプライド」あるいは「男の沽券に係わること」と考えて重視し、その習慣を死守したがるのである。■

2015年9月23日水曜日

しっぽの痛み

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
「しっぽの痛み
       ── しっぽを踏まれたことがあるか?」

として掲載しました。(2015-10-1)

 多摩川沿いにウオーキングをしながら“痛み”について考えている。
 事故等で足を失った人が、もはや存在しない足の特定の部位に痛みを感じるという話を聞いたことがある。これは実際に痛みを感じるのはその部位ではなく脳の方であることを示している。

 人類はその昔尾を持っていたと言われているが、もし現在でも尾があってそれを誰かに踏まれたりしたら、さぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われた尾の神経の一部が今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々は体験できるのではないか、などと“しょうもない”ことを考えながら、私は多摩川のサイクリングロードを歩き続けている。

 我々は誰しもしっぽを踏まれた経験はない。しかし今思い返してみると、私は子供の頃いじめを受ける度に何度もそれを経験していたのではないかと思うようになった。私はいじめられっ子ではなかったが、それでも子供の頃身辺にはいじめはいくらでも存在した。

 いじめを受けたとき、それが物理的な暴力によるものなら打たれたところが痛むものである。しかし言葉によるいじめではそういう痛みはない。しかし“言葉による暴力”という表現があるくらいだから、本当にこたえるのはそういう陰湿ないじめの方ではないかと思う。いじめられた本人は傷つき身体のどこかに痛みを感じているはずなのだ。しかし子供はそれを表現できない。大人になるとその種の痛みのことを心の痛みと呼んで区別する智恵を身に付けるが、子供にはまだそれができないのだ。

 とりあえず身体の不調を訴えて自分の殻の中に閉じこもろうとする。痛い部位を具体的に示せないから、子供はとりあえず「オナカが痛い」と言ってごまかそうとする。よく知られているように、いじめに合っていることを示す最初のシグナルがこれである。しかし本当にお腹が痛いのかもしれないからその区別は難しい。「しっぽの痛み」と呼んで明確に区別してくれると助かるのだが。

 いじめ問題が起こる度に、私は子供達に「そういうときは“シッポが痛い”と言うんだよ」と教えてあげたい。そうすれば、子供達はもっと具体的に痛みの原因を訴えやすくなるのではなかろうか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言われている。だから私もこの際もう一度、自分の心の痛み… いやしっぽの痛みと向き合ってみようと思う。■

2015年9月21日月曜日

続々・素朴な疑問:三権分立も理解していない?

 今の政府は立憲主義を理解(*1)していないらしいから、もしかしたら三権分立も理解していないかもしれない。
【注】(*1)“理解”について:物事を「知っている」あるいは「分かっている」積りでも、それを自分が実践する立場になったときその通りにできない人がいる。それは、本当には“分かっていない”、“理解していない”ということである。
 そうなると安保法制に対する違憲審査請求をしたとしても、担当する裁判官に対して政府は密かに圧力(*2)をかけるんじゃないかなぁ。そうなったら国民はどう対応したらよいのか。分からないなぁ‥‥。
【注】(*2)砂川判決では、今頃になって新たな事実が次々と判明している。

2015年9月16日水曜日

続々・素朴な疑問:ストリーミング再生

   ------ 聴き放題でよいのか

 最近、定額制の音楽配信サービスが注目されている。音楽を聴いて楽しむには、これまでは音声を記録したCDを直接購入するか、あるいはネット上からファイルをダウンロードし、パソコンやスマホ等に保存してから再生するのが主流であった。これをオフライン再生と呼ぶ。

 この新サービスでは、ネット上に置かれた音声データを逐次ダウンロードしながら、同時に再生させていく方式を取る。これをストリーミング再生と呼んでいる。

 月額で千円程度を払えば(定額制)、何曲でも自由に聴くことができるらしい。聴き放題をキャッチフレーズとしているから、音楽を頻繁に聴く人を対象にしたサービスであると言えよう。ただ、ストリーミング再生の場合は聴きたい時に、聴きたい曲を求めてインターネット上に聴きに行くという形になるから、原則としてオンライン接続(*1)で聴くことが求められる。

【注】(*1)オンラインで一度聴けば、一時的に保存されたファイルを利用してオフライン再生ができるようにしたサービスもあるらしい。

 この方式の狙いは、オンラインで聴いている時だけ利用許諾を与え、それ以外の時は与えないようにできる点にあるようだ。つまり金儲けのための巧妙な仕組みであると言えよう。

 私などは昔ながらの方式で、CDというメディア上に記録されたものを購入しないと安心できない。そのCDさえ持っていれば、著作権上の問題で将来訴えられることはない(と思う)からである。ネット上から音声ファイルをダウンロードし購入する場合も条件は同じであるが、この方式では年月の経過とともに著作権上の利用許諾権を証明するものがなくなってしまう可能性が強い。将来苦労するのではないかと他人事ながら心配になる。CDを選ぶかダウンロードを選ぶかは個人の好みの問題であると言えよう。

 海外ではストリーミング再生が普及しているらしいが、日本では将来どちらが主流になるのだろうか。
 ストリーミング再生では、聴きたい時は何時もネット接続が必要となるから、通信回線上の負荷が想像以上に大きくなるのではないかと危惧している。
 音楽配信の場合、同じ利用者が同じ曲を何度も繰り返し聴くことが予想されるから、同じ内容のデータがネット上を繰り返し飛び交っていることになる(動画配信でも同じだが程度が異なる)。一般的な情報通信の立場から考えると、これは大変な無駄ではないかと思う。送信技術がいくら進歩しても、通信速度には限界がある。我々はネット上のデータ通信量を常に減らす努力を続けなければいけないと思う。

 ストリーミング再生方式は聴き放題を重視する音楽愛好者(オタク)を相手にした金儲けの手段としては有用かもしれない。しかし一般利用者(あるいは、聴きたいものだけを聴く真の音楽愛好者?)にとっては迷惑な話である。聴き放題(あるいは、動画の場合は見放題)を許していたら、将来どうなるのだろう。こういう方式が主流になるのを看過していてよいのだろうか。理解できないなぁ。分からないなぁ・・・。■

2015年8月26日水曜日

謝罪   .......... “謝らない日本人”でよいのか?

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
「謝罪
       ── 謝らない日本人”でよいのか?」

として掲載しました。(2015-9-1)

 安倍総理の「戦後70年談話」なるものを聞いて以来、私は 謝罪 についていろいろと考えている。
 70年談話 を私はテレビを通じて聞いたのだが、長い弁舌だったわりには心を打つような山場もないまま終わってしまったような気がする。長いなぁという感想だけが残った。今までの総理談話はこんなにも長いものだったのだろうか。

 表面的にさらっと聞き流すと、世情で注目されていた4つのキーワード“植民地支配”,“侵略”,“反省”,“お詫び”はそれぞれ登場しているから、何となく分かった積りになった人も多かろう。だが、私は何か解せないところがあった。そこで、翌日の新聞に掲載された全文をしっかりと読んでみた。その結果、これは(多分、官僚が作った)“巧妙に作られた下敷き”があって、その下敷きの枠に沿って書き上げられたものではないかと思うようになった。実に巧妙に構成されていたからである。

 全体は大きく二つの部分から成り、前半では日本の戦後70年の歩みが紹介されている。侵略 については、負の側面を薄めようとしているところもあって気になるが、ここでは深入りしないことにする。
 前述の4つのキーワードはこの前半部分に出てくるのだが、よく読むと「痛切な反省と心からのお詫び」という表現の主語があいまいで、“私”(安倍総理)の言葉ではなく歴代内閣の表明をただ引用しただけであることに気が付く。そして「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」であるとし“全体として引き継ぐ”という形で締めくくられている。つまり“私”がお詫びをしている訳ではないのだ(実に巧妙である)。

 後半の部分は、これからの若い世代への期待と日本の世界に対する貢献が述べられている。この中に「あの戦争には 何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分がある。この部分が、安倍総理が一番言いたかったことなのであろう。

 新しい世代の子どもたちは、もうこれ以上「謝らなくてよい」ようにしたい。しかしこれでは諸外国からの反発が予想されるから、同時に抜かりなくこうも言っている。「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」と。

 我々日本人にとって、常に謝り続けるのは辛いことである。だから「謝らなくてよい」となれば、誰でも共感したくなる。しかし私は、やはり謝るべき時には、何時でも心から謝罪できる人間でありたいと思う。そのためには、何について謝罪するのかをしっかりと理解していなければならない。つまり日本の歴史をしっかりと頭に入れておかなければ、謝ろうにも何を謝ればよいのか分からないからである。

 安倍総理の「過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」という言葉とは裏腹に、日本の歴史教育は日本にとって不都合な歴史上の出来事はできるだけ教科書に載せない(あるいは触れない)方向へと動いている。不都合な歴史上の出来事を教科書に記載したりすると「自虐的歴史観」であるとして排斥され、教科書として採用されない。つまり、次の世代には教えないようにしているのである。

 その結果、日本の歴史を正しく理解していない若者が増えていくことが予想される。しかも、彼らは謝罪しなくてよいという免罪符を手に入れているから、日本の不都合な歴史上の出来事を知らず、謝ることもしない日本人がこれから続々と海外に出ていくことになる。これは由々しきことである。

 海外に行く目的が「買い物」や「観光」だけならあまり問題は起こらない。せいぜい「爆買」とか「マナー違反」でひんしゅくをかう程度であろう。しかし仕事や留学などで長期間海外に滞在する場合は、現地の人々と親しく交わる必要があり場合によっては歴史問題で意見を求められる、あるいは議論を挑まれる機会があるかもしれない。

 若者たちが日本という国に 引き籠って 外国へ出ていかなければ、多分歴史問題で自己の意見を求められる経験をすることはないかもしれない。日本に居て多くの日本人に囲まれて生活している限り、歴史問題でいくら世間に通用しない“とんでもない歴史観”を語っても恥をかくことはない(国会や地方議会の議員さんの中にそういう人が沢山いるじゃないですか)。しかし単身海外に出ていって、そういう環境に身を置いたとき、一人で自己の主張を通じて相手を説得することができるかどうか、という問題である。

 日本にとって不都合な出来事も含めて歴史上の基本的な知識を学んでいないと、国定教科書などで自国中心の歴史観を学んでいる外国人を前に、我々は正しい自己主張ができなくなる。そういう人間は卑屈になるか、あるいは無暗に反発するかいずれか両極端に走ることになろう。
 「私には分かりません」と逃げる手もあるが、それは欧米では通用しない。欧米で「ホロコーストを知らない」と言えば、相手から無知だと思われ相手にされなくなる。グローバリゼーションの時代に外国人に向かって日本の歴史や文化を説明できなければ、同じように無知だと思われることだろう。恥ずかしながら、私は何度もそういった経験をしてきたのである。

 「あの戦争に“何ら関わりがない”」と信じてきた人たちも、実際にそういう場面に遭遇すれば、実は“関わりがある”ということを納得できるであろう。日本の歴史を勉強して、必要なら躊躇することなく心から謝罪のできる人間になってほしいと思う。■

2015年8月24日月曜日

素朴な疑問:首相の女性観

 安倍首相のヤジが止まらない。

・5月28日の衆院特別委員会で、民主党の辻元清美氏に対し「早く質問しろよ」とヤジを飛ばした。 

・8月21日の参院平和安全法制特別委員会で、民主党の蓮舫代表代行の質問中、自席から「まあいいじゃん、そんなこと」とヤジを飛ばした。

 首相は日頃から「法案を丁寧に説明する」とか「国民に分かりやすく」とか言っている割には、実際の行動はそれとかなり乖離した行動を取っているように思う。偶然かもしれないが、安倍総理は女性議員から質問されると普段以上にエキサイトするようである。一般に女性議員の発言中はヤジを飛ばす議員が多いらしいが、これは女性に対する偏見からきているのではないか。安倍政権が成長戦略の柱として掲げる「女性の社会進出」というのもどうやらお飾りに過ぎないような気がしてきた。首相の女性観はどうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■