2016年2月3日水曜日

節分

 節分の頃になると私のホームページのあるページが頻繁にアクセスされるようになる。昨日などは38回も読まれたようである。「何だ、たったそれだけか!」と思う人がいるかもしれないが、私のホームページは田舎の過疎地にある“あばら屋”なので滅多に人が訪れることがない。これは極めて珍しいことなのである。

 この時期だけそんなに読まれる理由を私は分かっている積りだが、さすがに書かれている内容の方が心配になってきた。何しろ13年前に書いたものだったからである。

鬼と福はどちらが先なのだろう?」(2003-03-01)


 そこで、久しぶりに読み返してみた。
 なるほどそういうことか。この時季、豆を撒くときに「鬼は外、福は内」と叫ぶか「福は内、鬼は外」と叫ぶか迷っている人が多いのであろう。私は、以前自分で書いたものを読んで、あらためて教えられたりしている。何ともはや。■

2016年1月26日火曜日

続々・素朴な疑問:双子はどちらが兄(姉)か?(解決編)

 双子が生まれたとき「兄弟姉妹」をどうやって決めるのか。
昔、どこかで仕入れた知識によれば、後から生まれた方が兄(姉)になるというのが私の理解であった。何故、後から生まれた方が兄なのか、と私は素朴な疑問を持ったのを覚えている。もしかしたら、これが私の抱いた最初の“素朴な疑問”であったかもしれない。

 生まれた順番を重視するのは人間だけが持つ特性である。しかしその順番は、当事者の意思では決められないのが普通である。ただ双子や多胎児の場合のみ人為的に(それも当事者でない誰かに)決める機会が与えられることになる。

 私の身辺には双子はいないし、そもそも兄弟の順番がその後の人生に深く影響を及ぼすような高貴な家柄の生まれでもない。そんなこともあり、私はこれまであまり深くは考えたことがなかった。しかし最近知ったのだが、現在は先に生まれた方が兄(姉)となる決まりになっているのだそうである。

 昔の慣例(*)とは異なるものになってしまったのは驚きであるが、その過渡期にいた人たちの間では色々と苦労があったことであろう。いずれにしても、その決め方に何らかの合理的な理由があるのであれば、それはそれで良いのではないかと思う。

【注】(*)慣例となっていたのかどうかも私は知らない。ただ決まりがなかっただけかもしれない。 
 実際に調べてみると1874年12月13日の太政官布告により、生まれた順に兄弟姉妹が定まるとなったらしい。現在の法律ではそれがどう反映されているのか調べてみたが、私は法律に疎い方なので結局よく分からなかった。唯一見つけたのは、戸籍法の中にある「戸籍の書き方」に関する取り決めである。
戸籍法   第三章 戸籍の記載
第十四条【氏名の記載順序】
氏名を記載するには、左の順序による。
第一 夫婦が、夫の氏を称するときは夫、妻の氏を称するときは妻
第二 配偶者
第三 子
2 子の間では、出生の前後による。
 この条文中の“出生の前後”という表現から「先に生まれた方が兄(姉)」という解釈が成り立つのではないか。少し無理があるかもしれないが、少なくともそう解釈しない限りこの条文の趣旨と齟齬をきたすことになってしまうからである。しかし「齟齬をきたす」からという理由だけで“合理的な解釈”とみなすのは無理があろう。

 ところが最近、この疑問に決着をつける出来事があった。アメリカで2015年12月31日の残りわずかで女児が生まれ、2016年が明けた2分後に男児が生まれたという。この事例から「先に生まれた方が兄(姉)」の方に軍配が上がるのは当然のことであろう。

 普通、多胎児の出産では数分から一時間程度の時間差で生まれることが多いという。記録では数十時間から数十日の間隔が開いて生まれる場合もあるらしいので、誕生日や誕生年が異なる兄弟姉妹が存在することになる。素直に“生れ出た順に”というのが合理的な解釈であろう。

 長年の疑問が解けてホッとしているところである。

2015年12月21日月曜日

続々・素朴な疑問:批判的に読む

 電車に乗っていて考えた。最近、電車の中で本や新聞を読んでいる人がめっきり少なくなった。スマホを利用する人が増えたからであろう。
 そんな中で、私一人は頑なに電子書籍ならぬ普通の本や新聞を読んでいるのである。こういう古くからのスタイルは車内では目立つようになり、その内に勇気を必要とする行為となっていくのだろう。

 ところで、日本の書物はほとんど縦書きが主流であるから、当然のことながら私めは顔を上下に動かしつつ(頷きながら)書物を読んでいる。以前「縦書き・横書き論」で述べたことだが、これが日本人が書物を批判的に読めない原因となっているのではないかと思う。本来、読書の姿勢としては批判的に(首を横に振りながら)読むことが大切なのだが、日本人は読んだものを何でも肯定的に(頷きながら)受け入れてしまう傾向がある。どんな書物であっても常に批判的な姿勢で読むべきであろう。

 先に触れたように、最近の若者たちはスマホを利用しているから、多分縦書きより横書きのものを読む機会の方が遥かに多いに違いない。したがって、これからは批判的に読む習慣が自然と身に付いた若者たちが増えていくことであろう。しかし残念ながら彼らは書物というものを読まないという。優秀な編集者によってしっかりと査読された後に出版される(信頼のおける)書物ではなく、ネット上の(怪しげな情報を含む)横書き情報ばかりを読んでいるのではあるまいか(あっ、そう言えばこれも横書きだな)。

 もしそうだとすれば、何事によらずネット上で他人を批判することに長けた人が増えている問題の原因は実はそこにあるのではないかと思う。スマホの利用が原因で批判的に(首を横に振りながら)思考する人が増えてきたのだとすれば、これは一大事である。スマホ利用の弊害の一つとも言えるのではないか。
 情報は批判的に読むべきか、あるいは肯定的に読むべきか、どちらがいいのだろう。分からないなぁ・・・。■
















(これは、ジョークですから真面目に反論しないでくださいね。)

2015年11月26日木曜日

続々・素朴な疑問 テロとカミカゼの違い

 欧米では、テロのことを“kamikaze”と呼んでいるらしい。一部のメディアでは、カミカゼは自爆テロやテロリストを表現する言葉として使われている。どうやら自殺攻撃(suicide attack:スーサイドアタック)のことを“kamikaze”と総称しているように思われる。

 これを伝え聞いた日本のメディア関係者は「特攻隊はテロリストとは違う」と主張している。私も最初はそう思った。しかしよく考えてみると、少し似ているところもあるなぁ~。いや、著しく似ていると言ってもよいくらいだ。

 逆に、カミカゼとテロリストとは一体どこが違うのだろう。分からないなぁ。


【テロリストと特攻隊員の違い】
●美化について
▼テロリストは「神は偉大なり」と叫びつつ銃を乱射したり自爆したりする。特攻隊員も「天皇陛下万歳」と叫びつつ敵陣に突っ込んで行き自爆する。
▼いずれも、若者たちを引き込んで誤った教育で洗脳し「お国のために(あるいは大義のために)」と信じ込ませる。若者たちは自分というものを見失ったまま死んでいく。
▼死者ともなれば「国(あるいは特定の集団)のために尊い犠牲となられた」とか「英霊」あるいは「幸せな來世がある」と言って美化し、更なる愛国者を募るのに利用する。
▼それをけしかけた者たちは、必ず後方の安全地域に居て生き残り、彼らの行為を美化し続ける。
▼この美化が、他の国(あるいは集団)からは決して理解されない。
(例えば、我々が、イスラム過激派がテロの成果を賛美するのを理解できないのと同様に、他国は、日本の指導者が靖国参拝するのを理解できないであろう。お互いに逆の立場に立って考えれば明らかである)
▼残された遺族も美化されるが、遺族がそれを喜んでいるかどうか、その本心は分からない。

●戦う相手の違い
▼イスラム過激派とは、イスラム教という宗教の名を借りて過激な行動を取る集団である。
▼特攻隊を操った集団も、その実態は日本の一部過激派集団と考えられる。
▼したがって、攻撃相手が国か特定の集団かの差はあまりない。
▼攻撃する相手が一般市民か軍隊かの差はあるが、同じ人間の死という点では同じである。
▼最近、日本の「一部過激派集団」の活動が目立つようになってきた。困ったものである。匿名で難癖を付けてくる者が居たら、それは過激派集団の一味である可能性が高い。気を付けよう。


 いろいろ考えてみたが、やっぱり分からないなぁ~。
私も、過激派集団に難癖を付けられないよう、この位にしておこう。■

2015年11月24日火曜日

続々・素朴な疑問 “W杯”

 世の中の人は“W杯”と書いて「ワールドカップ」と読んでいるらしい。私は頑固だからそうは読めず、常に「ダブリュウはい」と読むことにしている。このことは13年程前に「続・素朴な疑問(21)」“人はなぜ“W杯”を「ワールドカップ」と読めるのだろう”に書いた通りである。

  齢を重ねて私もだいぶ性格が丸くなったためであろうか、最近はこの単語に出会うと「俺も頑固よのぅ~」と心の中でつぶやきながら、やはり今でも「ダブリュウはい」と読み続けているのである。しかるに、今日の新聞を読んでいたら以下のような記事に遭遇した。

 そうです“W杯”の杯(はい)にふりがなが付いているのを発見したのである。安心してください、“はい”とありますよ。
 これを書いた新聞記者はしっかりと「ダブリュウはい」と読んでもらう積りで書いている。それにも関わらず、世の中の人はどうして「ダブリュウはい」と素直に読めないのだろう。分からないなぁ‥‥。

2015年11月18日水曜日

私のコンピュータ遍歴

      ━━ 表示方法への工夫

 以前から、自分がこれまで使ったことのあるコンピュータ類をすべて洗い出しリストアップしてみたいと思っていた。過去のコンピュータの“終活”である。

 コンピュータ(電子計算機と呼んでいた時代もあった)の名称を思い出してはメモに書き止めていたのだが、次第にその写真も集めるようになった。しかしこれがなかなか難しい。インターネット上で探しても期待したようなものが見つからないことが多かった。記憶力の低下もあって名称を正確に思い出せないものもある。

 そうやって何度も挫折しては、またしばらく時間を置いて再び挑戦するということを繰り返してきた。最初にメモを作った時のファイルのタイムスタンプを確認すると「2007-7-29 18:23」となっいるから8年以上経ってしまったことになる。その結果、折角手に入れた写真の出典も曖昧になりつつある。

 うまくまとめられない原因はどこにあるのだろう、と私は考えてみた。
 そもそも、何のためにまとめようとしているのか。それは成果が得られたら自分のホームページ上に掲載したかったのである。それなら「どのように見せるか」の方から考えた方が良いかもしれない。

 見せたいと思っても、他人のコンピュータ遍歴に関心を持つ人はそう多くはあるまい。しかし昔の仕事仲間の同僚たちが見てくれたら、間違いなく関心を持ってくれるであろう。更に表示方法を工夫すれば“もの好きな人”が現れて、少しは関心を持ってくれるかもしれないと考えたのである。

 思うに情報というものは、ただネット上に並べただけでは見てもらえない。その量が大きくなればなるほど、逆に先を読み進もうとする意欲が減退してくるものである。
 私は、博物館や美術館を見てまわっているときの経験で、膨大な展示品をただ順繰りに見てまわっているだけだと、自分が今全体のどの辺りを見ているのかが分からなくなり、そのうちに疲れ果ててしまうことがある。後どのくらいのエネルギーを残しておけばよいのか。目の前の展示品に関心が向かなくなると、ただそれだけで疲れてしまうのである。もしトップダウンに全体を見渡すことができれば、特に関心のある部分だけを集中して見ることもできるはずである。そういった不満を何時も抱えていたので、この機会に何とかその問題に取り組んで、何らかの解決策を見つけたいと思ったのである。

 そこで私は、以前ホームページのサイトマップを作製した時に用いた技術をここで活用し、表示方法を工夫してみようと思い立った。
 このような経緯で表示方法の枠組みが出来あがると、作業は驚くほど急速に進捗するようになった。盛り込みたいコンピュータの種類も増え、忘れていたコンピュータの名称も何故か急に思い出したりするようになった。登録した各コンピュータには自分の“思い出”も書き添えることにしよう。計算するための道具(計算器と呼ぶべきもの)も盛り込んでしまおう、‥‥という具合に色々なアイディアも浮かんできた。

 その結果出来あがったのが「私が使用したことのあるコンピュータの一覧私のコンピュータ遍歴(my Computer Career)である。もちろんこれで完成ではない。これからも新しいコンピュータが登場するかもしれない。忘れていたコンピュータを思い出し、突然登録したくなるかもしれない。個々のコンピュータには“コメント”を書き込む欄が用意されているので、個々のコンピュータに関して思い出したことがあれば、それを少しずつ時間をかけて書き込んでいこうと思う。まだまだ内容が更新される予定なので、更新履歴が分かるように“バージョン番号”を付すことにした。興味のある方は、是非一度見学に訪れるよう期待しています。もちろん入場無料です。■

2015年10月22日木曜日

男の沽券

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
男の沽券
       ── 本能とプライドの関係」

として掲載しました。(2015-11-1)

    ━━━ 本能とプライドの関係

 男の“沽券に係わる話”をすることにしよう。
 こう言うと大きなテーマのように聞こえるが、なに、男性が用を足す時、小の場合は立ったままするか、便座に座ってするかの問題である。私の知る限りでは、最近は「座る派」が着実に勢力を伸ばしているのではないかと思う。しかし「立ち派」もその姿勢を崩さず、頑迷な‥‥ぃゃ頑強な(と表現しておこう)保守勢力として存在し続けているのもまた事実である。

 最近の実験結果から得られたデータによれば「立ち派」によるトイレの汚れが想像以上に酷いことが明確になってきている。しかし、その事実を知っても世の男性達の多くは「自分は今まで通り」と「立ち派」にこだわる傾向がある。「男のプライド」を守ろうとしているのだ。

 斯く言う私も「男のプライド」を守っていた時期もあったが、12年程前から「座る派」に転じている。この時期を明確に覚えている理由は、家内に難病の兆候が出始めた頃であり、それ以後私はアイロン掛けトイレ掃除とを自らやることにしたからである。

 トイレ掃除をするようになって、私はその汚れの酷さに驚いた。当時私は家内との二人暮らしだったから、汚れの原因が私にあることは明白であった。そして掃除をする者が考える自然の成り行きとして、まずは汚さないようにするのが第一だと思うようになったのである。私は結婚以来、家内からトイレの使い方について一言も注意を受けたことがない。ずっと我慢し、黙って掃除をしてくれていたのである。申し訳なくて頭の下がる思いをしている。そういう次第で、この問題が広く論じられるようになるかなり前から、私はトイレの汚れを意識し「座る派」を実践していたのである。

 「立ち派」を主張する男性を見ると、私は「男のプライド」というものを理解できるから、別段批判する気は起らない。ただ「あぁ この人は普段からトイレ掃除をしたことがない人なんだ」と思うだけである。自分で掃除をするようになれば、「立ち派」を続けることは絶対にありえないと信じるからである。

 今日も私は「座る派」を実践しつつ、つくづくと考えてみた。我々人類を造られた創造主様は、いったいどのような意図を持って我々の身体を設計されたのであろう。つまり男性が排尿する時の姿勢は「しゃがみ派」、「座り派」、「立ち派」のいずれを前提にしていたのかという点である。人類がその後、洋風の便器なるものを発明し座って用を足すようになると予想していたとは思えないから、多分「しゃがみ派」と「立ち派」のいずれかを考慮していたのではないかと思う。

 恐れ多くも創造主様は、女性は「しゃがみ派」男性は「立ち派」を前提としたと考えるのが自然であろう。私は体験的にも「座る派」はありえないと思う。実は、男は座ると尿が少し出にくくなるのである。慎み深い私めは、これ以上は詳しく書かないことにする。

 私は外出時に駅の公衆トイレなどを利用することがあるが、そういう時は躊躇することなく「立ち派」に変身してしまう。この日和見的「立ち派」としての経験と合わせ考えるとき、「立ち派」の利点は排尿時に重力をうまく利用している点にあることが分かる。尿の切れがよくなるからである。慎み深い私めは、これ以上は‥‥(分かったよ!)。

 しかし、これはあくまでも私の体験に基づく考察であるからして、説得力に欠ける所があるかもしれない。しかも他の文献類でこういう説を唱えているのを見たことがないから猶更である。しかし犬の所作を見ている人なら納得してもらえると思うが、雌犬は「しゃがみ派」であり、雄犬は必ず「片足上げ派」である。犬の創造主はしっかりと区別して設計しているのだ。そして、彼ら犬達は本能にしたがって創造主の意図を正しく理解しているように見える。
 犬の創造主と人類の創造主が同じなのかどうかは分からないが、恐れ多くも創造主様は人類もうまく設計してくださっているに違いない。

 人類にそのことを代々間違いなく伝えていくには(取説などないから)本能として身に付けさせる必要がある。その結果、男は「立ち派」ということを本能的に知っているのである。そして男たちは、それを「男のプライド」あるいは「男の沽券に係わること」と考えて重視し、その習慣を死守したがるのである。■