2016年10月20日木曜日
新【悪魔の辞典】(2) KY
応用例:
・KY国語学者: 若者が使う間違った日本語を咎めたりせず「言葉は生きているから」などと言って、いわゆる「若者言葉」に必要以上に理解を示す日本語の専門家
・KYメディア:(自明なので説明は省略する)
新【悪魔の辞典】(1) 与党
応用例:
・与党ジャーナリズム:時の権力に与する報道機関
・与党ジャーナリスト:時の権力に与する報道関係者
・与党裁判官:時の権力に与する裁判官
2016年9月12日月曜日
度量衡の単位の覚え方
私の小学校時代はこれで覚えたものであるが、私が企業を定年退職し大学教師となったとき、授業でこれに触れたところ知っている学生がほとんどいなかったのは驚きであった。科学の発展にともなって、その後新しい単位がどんどん付加されていったから、今の子供達は覚えるのが大変だろうなぁ~。彼らはどうやって覚えているのだろう、と私はかねてから不思議に思っていたのである。
![]() |
| (図:度量衡) |
キロからミリまでの単位が定められたのは1795年である。
![]() |
| (図:度量衡-1) |
その後、この単位だけでは足らなくなり、1960年にテラからメガ、マイクロからピコまでの単位が追加された。
![]() |
| (図:度量衡-2) |
科学の発展は凄まじくそれでも足らなくなり、1964年にはエクサからペタ、フェムトからアトまでが追加された。
![]() |
| (図:度量衡-3) |
更にヨタとゼタ、ゼプトとヨクトが追加されて現在の姿になった訳である。
![]() |
| (図:度量衡-4) |
我々が扱う普通の数値の大きさは、18世紀の終り頃に定められた単位の範囲内で十分であったのだ。それが、この数十年の間に急速に拡大しビッグデータの時代に突入しようとしている。こういった単位の変化からも、最近の科学の発展の凄まじさが感じ取れるのではないだろうか。
小中学校時代ならまだいいが、高校、大学と進んだらやはり新しい単位も覚えなくてはならないことになる。すべての単位の覚え方を以下に示しておくことにしよう。■
![]() |
| (図:度量衡の記憶法) |
2016年8月22日月曜日
2016年8月5日金曜日
20年前のたわごと
『新聞はなぜ「ソフトウエア」と書くのだろう』
{ http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/gimon04.htm }
という記事を書いたことがある。要するに「ソフトウェア」と書くか「ソフトウエア」と書くかの論争である。それが、何故か未だに読まれ続けている(しかも一日に複数回も)。
どこが面白いのか、私はかねてから不思議に思っていた。今日、たまたま時間があったので自分も読んでみようと思い立ったのである。読んでみて、確かに面白かった。20年前にこんな「たわごと」を書き連ねていたのか、と。
当時はテキスト入力法として「ローマ字入力」と「ひらがな入力」とが競っていた時代だった。これを読んで、現在のケータイやスマホ利用者が愛用しているであろう入力法をベースに考えると、どんな感想を持つか知りたくなったのである。
以下、本文は省略して【追記】の部分だけ紹介する。なお“悩める相談者”とは私めのことである。
【悩める相談者による追記】1997-01-27
私がなぜこんな些細なことにこだわるのかというと、“ソフトウェア”というのは私の勤める会社の社名の一部になっているからである。よく、社内旅行などで温泉場を訪れると、団体バスで乗り付けた旅館の玄関には仰々しくも華々しくも、大きな黒い看板に白で“歓迎”の印とともに我が社の社名が大書されていたりする。それを見ると、何時も大抵はどこか字が間違っているのである。「東芝ソフトエンジニアリング御一行様」とか、「東芝ソフトウエアエンジニア御一行様」などと書いてある。こんなのはまだいい方で、「東芝ソフトエンジニヤリング御一行様」などと書かれていることもある。
そういうのを見つけると私は、またかと思い、思わず「ニヤリ」と苦笑いしてしまうのである。
しかし考えてみれば「ソフトウェア」も「エンジニアリング」も、彼ら旅館経営者にとってはまったく無縁な存在の言葉なのであろう。こんな些細な字の誤りなど「ニヤリ」と笑って見逃してあげるのが武士の情けというものである。
ところが新聞紙上でこの字を見つけると、旅館経営者に対するのと同じような寛容な気持ちには決してなれない。「ソフトウェア」も「エンジニアリング」も彼らにとっては身近な話題でなければならないはずだ。とても「武士の情け」などとはいっていられないのである。
こだわる理由はもう一つある。以前「ソフトウェアの法則」という本を書いたとき、夏目漱石「坊っちゃん」の一節を引用したことがあった。間違いのないようにと、私は夏目漱石全集を引っ張り出して詳細に文章をチェックしたのである。そして自信を持って原稿を編集者に渡したのであるが、やはり間違いを指摘されてしまった。編集者が言うには「坊っちゃん」ではなく「坊つちやん」なのだという。信じられぬ気持ちでもう一度本を出して調べて見ると、何と、確かに「坊つちやん」というタイトルになっているではないか。恥ずかしながら私はこれまで夏目漱石の名作の名を誤解していたのであった。同時に、編集者の実力の程を思い知り、ただただ恐れ入ったものである。
こういう経験を何度かしてくると、人間どうしても正確な表現にこだわらざるを得なくなってくる。であるからして、私にとっては「ェ」と「エ」は大変な違いで、簡単には見逃せない大問題なのである。
さて、私のこの【素朴な疑問】を掲示板上で読まれたのであろう、S氏が、これが参考になると言って私に「毎日新聞用語集」という辞典をくださった。それを見ると、Yさんが言っているように、確かに『原音で「ウィ、ウェ、ウォ」の音は、「ウイ、ウエ、ウオ」と書く』と記されている。
しかし、新聞紙上では「ウィンブルドン」というのを実際に見かけたことがあるから、固有名詞は別扱いになっているのであろう。
たとえば「ウェット」はこの規則では「ウエット」と表記されることになるが、前者では「ウェ」が「ッ」と跳ねるのに対し、後者では「エ」が「ッ」と跳ねることになる。これでは全く違った発音になってしまうではないか(え? 何を言っているのか分からない? 私にも分からない)。
この新聞社の定めた規則を見ていると、ジャパニーズイングリッシュを作り出しているのは実は彼らではないかと思いたくなる。日本人にとって発音しやすいようにという観点だけで適当に表記法を変えてしまっていると、結局原語とは似て非なるものになってしまうからである。
我々が常日頃目にしているこういった“ジャパニーズイングリッシュ”は、アメリカへ行って使ってみるとまったく通用しないことが分かる。我々はその事実を実際に体験して初めて愕然とするのである。その結果、アメリカの空港でシカゴへ行きたければ「シコーゴ」と叫べとか、フィラデルフィアへ行きたければ「フルドフィア」と叫べとか、そういう生活の知恵を学ばねばならない羽目になる(これを知らぬととんでもない所へ連れていかれてしまう可能性があるのだ)。更には、マクドナルドへ行きたければ「マクダーナル」と発音する必要があることを承知していないと、とうていビッグマックにはありつけないのである(もっとも、マクドナルドの店が見付からなくても、どうということはないが)。
このように自分の貧しい英語力を実感するたびに、私は思うのである。この責任は日本のお粗末な英語教育だけにあるのではなく、日本の新聞社が定めた表記規則にもその責任の一端はあるのではないかと。
ところで、この表記法に関連する問題を、私はここで更に深く掘り下げてみたいと思う。ただ、これ以下に書くことは、私が常日頃尊敬して止まない「ローマ字入力者」(ローマ字入力法を用いている人達)の気分を損ねる可能性なしとしないので、これ以下は「ひらがな入力者」だけが読むことにしてほしい。
よろしいかな。ひらがな入力者だけですぞ(以下で「彼ら」とは、ローマ字入者のことである)。あなたの後ろから“彼ら”が覗いていないかどうか、もう一度確かめてほしい。よろしいか。
実は私は、この新聞社の定めた規則は、新聞記者用のワープロを用いてローマ字入力する際の利便を考えて作られたものではないかと疑っている。彼らの用いるローマ字入力法では、
「ウィ」は「WI」と入力する。
「ウェ」は「WE」と入力する。
「ウォ」は「WO」と入力する、と言いたいが、これは「を」または「ヲ」になってしまう。したがって「ォ」だけは単独で入力するしかない。つまり統一的でないのだ。
「ィ、ェ、ォ」を単独で入力するには(私の周りにいる「彼ら」に教えを請うと)「LI,LE,LO」と入力するのだという。何というお粗末な規則であることか。
だとすれば、「ウォ」としたければ「ウ」を「U」で作り、ついで「ォ」を「LO」で作らなければならない。「ォ」のときだけはこんな面倒な手順を踏まなければならないとは、何という不統一な入力法であることか。こんな不統一な操作法では、頭の固い新聞記者に覚えさせるのは無理というものである。そこで、できるだけ「ィ、ェ、ォ」を使わないで済ませようと謀議を計ったのではなかろうか。
彼らが信奉する入力法で「ウィリアムテル」と入力したければ「ULIRIAMUTERU」とキーを叩かねばならないことになる。 ‥‥何? 「ウリリアムテル」だ? そうか、そうか、彼らは「LI」と「RI」をこのように区別して使い分ける技を身に付けていたのか。大変だなぁ、彼らは。日本人は「L」と「R」の発音を区別するのが苦手であるというけれど、その原因はこんなところにあるのかもしれぬ。それにしても彼らは何時もこんな複雑な操作をしていたのか。何と彼らは頭が良い連中であることか。頭の固い私には、到底真似のできぬ技である。
ローマ字入力は、頭を使うので惚け防止に最適であると主張していた人がいたが、こうやって見るとどうもその説は正しいように思われる。私もそろそろ惚け防止のための手を打たねばならぬ年代になってきているが、だからといってローマ字入力だけはやりたくない。それよりも、自分が惚けているかどうかを自分で判定することが、そもそも可能なのかどうかを疑問に思い、日々思い悩んでいるところである。
【注】私は「ローマ字入力法」をよくは知らないがローマ字入力法にも色々なバリエーションがあるようである。新聞記者用のワープロについても全く知識がない。したがって、これらの指摘はまったくの見当違いかもしれぬ。いや、そうに違いない。許されよ。■
2016年7月28日木曜日
気分転換(リフレッシュ)について
仕事の途中で気分転換がしたくなることがある。特に研究業務に取り組んでいるようなときは集中度を高める必要があるから連続して考え続けることが求められる(素歩人徒然「集中力」参照)。それにしても、ある程度の時間が経過したらやはり一息入れてリフレッシュするのが有効であろう。
私の経験では、気分転換にはある程度頭を使う時間を入れるとリフレッシュの効果が倍増するような気がしている(もし許されるなら、ゲームなどをするとよい)。休憩と称してダラダラと時間をつぶしているだけではリフレッシュ効果はあまり期待できない。最近の私は(もはや仕事はしていないが)気分転換が必要なときはいつも数独の問題に取り組むことにしている。それも少し難しい問題の方がよい。
つい最近、私はラジオで脳科学者が「ワーキングメモリー(作業記憶)」のことを話しているのを聞いた。記憶には短期記憶と長期記憶とがあるが、ワーキングメモリーはそのどちらでもない。ワーキングメモリーは、何かある目的を持ってやっている作業で使われる記憶で、日常生活での会話、お金の計算、あるいは創造性のある思考をするときにも使われる。ワーキングメモリーの機能が低下すると「頭のキレが悪くなった」と感じるようになるらしい。
気分転換でワーキングメモリーが使われると、その内容が入れ替わるからリフレッシュされることになるのであろう。これは、プログラミングの世界で言うところのワーキングストレージ(作業用領域)と似ているのではないかと思う。私は自分が経験的にやっていたことと合致するので我が意を得たりと思ったのである。しかしどこが似ているのか、これだけでは読者に理解してもらうのは無理で、もう少し説明が必要であろう。
さて、これからが本論である。
Windows 10を使っていて、いつも気になるのは“シャットダウン”の機能のことである。確か、Windows 8 にバージョンアップしたときからだったと思うが、コンピュータの電源を入れても“再起動”がされないことに気が付いた。つまり、前日にコンピュータをシャットダウンで終了させたのに、翌日電源を入れると完全な再起動の手続きが実行されていないのだ。パソコンの起動を速くするため、手抜きのシャットダウンをしていたのである。
コンピュータ用語辞典で「シャットダウン」の定義を調べてみたが、次の利用時に再起動が実施されるとは読み取れない。これではMS社にクレームを付ける訳にはいかないなと思った。何しろ昔から使われている用語(*1)だから、今の技術で考えると定義があいまいになってしまうのは避けられない。MS社は、起動時間を短縮するためなら手段を選ばずという方針なのであろう、用語定義の「あいまいさ」さえも利用してしまっているようだ。当時この件で異議をとなえた人はいなかったようだし、気の弱い私めは静観している内にその仕様にやむなく従うことになってしまった(つまり、毎朝自分で「再起動」ボタンを押すことになってしまったのである)。
【注】(*1)昔アメリカの研究所で MITにあるMultics システムの環境下で仕事をしていたとき、コンピュータシステムの電源を落とすことをシャットダウン(shutdown)と呼んでいるのを知った。単にコンピュータ本体の電源を落とすだけでなく、周辺機器も含めてすべてを一斉に終了させる大掛りな作業であるという印象を与えるので「格好いい呼び方だなぁ」と感心したのを覚えている。今風に言うなら「いいね」 をしたくなるほどだった。しかし再起動しないで毎日コンピュータを使い続けていると、一週間もしない内に何かしら不可解なトラブルが発生するようになる。そういうときは原因を追究するよりも、自然に直るのを期待して再起動してみるのがよい。MS社に報告しても反応がある訳ではないから、最初から無駄なことはしない方が賢明なのだ。それで結構通用してしまう。MS社と付きあうようになってから学んだ生活の知恵である。
しかし、そうは言いながらも私はこのトラブルの原因が何であるか知りたくて機会あるごとに考えてきた。そして長年のプログラマとして体験から、多分こういうことではないかと思うようになった。それは、Windows のシステムは「頭のキレが悪くなり」気分転換“リフレッシュ”が必要な状態になっていたのではないか、ということである(これでやっと話の筋が見えてきたでしょうか?)。
コンピュータ上で動くプログラムは、データを置く場所として静的な記憶域と動的な記憶域とを使い分けている。実行が始まってから必要になるものは、できるだけ動的記憶域に割り付ける方が限られたメモリーを有効に使えるのである。
利用者のプログラムで動的な記憶域が必要になると、システムのメモリー管理プログラムに要求を出す。システムはあらかじめ確保された領域(ヒープ領域と呼んでいる)から空きを見つけて利用者のプログラムに貸し出す方式をとる。そして、使い終われば返却させる。一方、利用者は借りた記憶領域を責任を持って管理することが要求される。その記憶領域の管理(*2)で不手際が起りやすいのである。
【注】(*2)記憶領域の管理この種のエラーを見つけるのは難しいけれど、普通は事前に取り除かれていると思ってよい。問題があるのは、このヒープ領域上に確保された記憶域上のデータの扱い方のほうである。
ヒープ領域に割り付けられたメモリは、割り付けた側が責任をもって管理し不要になった場合には速やかに解放してシステム管理下に戻すことが前提となっている。しかし、プログラミング上ではこの解放を忘れたことが原因で不都合が起こることが極めて多い。この種のメモリ管理のミスにもとづくエラーとしては、次の3種類がある。
・割り当てた領域を解放し忘れる(メモリリークという)
・既に解放された領域を参照する
・同じ領域を2度以上重複して解放しようとする
普通は、確保されたばかりの記憶域上に何か値(通常はゼロ)が置かれていても、それはゴミであるとみなし新たに値が設定されるまでは不定であるとする。そして領域が不要になったら(データの後始末をせず!)そのままメモリー管理プログラムに返却する(この過程で、ヒープ領域内のその記憶域はゼロでない不定の値を持つようになる)。
こういうやり方でメモリー管理をしていると、ヒープ領域は最初はゼロで埋められていても、時間の経過とともに徐々にゼロでないゴミ(不定の値)で埋められていくことになる。新たに貸し出される領域には、直前の利用者が残したデータの残骸が置かれている可能性が高まってくる。しかし、たとえゴミが残されていても管理規則を守って使っている限り何の問題も起らないはずなのである。ところが割り付けられた直後の“不定の値”をデータとして使ってしまう不心得なプログラムが存在するのである。こういう不心得なプログラムを見つけるのは極めて難しい。
私は、ある大きなシステムの開発を担当していたとき、デバッグ中に限りメモリー管理プログラムに手を入れて、記憶域を割り付けた直後は必ずゼロを埋めておくという手を打ったことがある。こうすると確実にプログラムデバッグができることを体験的に知っていたからである。しかし常にゼロクリヤーしていたのでは実行効率は悪くなる。デバッグの最終段階でこのゼロクリヤーを外すことにした。しかしその途端にプログラムの動作が不安定になったのを覚えている。明らかに不定の値が影響を及ぼしていたのである。
つまりトラブルの原因は、ヒープ領域のゴミを誤ってデータとして使ってしまうことに起因しているのではないか、というのが私の推測である。
これを避けるにはヒープ領域をゼロクリヤーするしかない。つまり再起動すればよいのである。再起動という気分転換(リフレッシュ)をすれば、すべて解決してしまうのだ。こういう事態を予想して私は毎朝必ず「再起動」を指定してからコンピュータを立ち上げるようにしている(*3)。
【注】(*3)Windows 10では、高速スタートアップのための「シャットダウン」が標準になっているが、再起動を含む「完全シャットダウン」に設定を変えることもできる(私は標準仕様で通す主義なので使ったことはないが)。皆さんも、時々は窓(ウインドウ)を開いて空気を入れ替え、リフレッシュしたらどうでしょうか。■
2016年7月18日月曜日
“上/前を向いて歩こう”
久しぶりに名曲「上を向いて歩こう」をじっくりと聴いてみた。これは失恋の歌である。中村メイ子に結婚を断られたとき、永さんが涙をポロポロとこぼして泣いたのがこの歌詞が生まれた切っ掛けになったという。この歌がアメリカで「SUKIYAKI」というタイトルで歌われているのは、私にはどうにも理解できないことである。永さんも無念であったに違いない。確か、著作権料を支払われる対象にもなっていないと思う。その点でも無念であろう。
ところで、世間では“歩きスマホ”が原因で、歩行者の間でいろいろな事故が起こり問題となっている。スマホの画面に見とれたりしないで“前を向いて”歩いてもらいたいものだ。歩きながらスマホを利用したら、システムが素早く危険を察知し“前を向いて・・・” いや “上を向いて歩こう”のメロディーが自然に流れ出るようにしたらどうであろうか。
アメリカでは“ポケモンGO”に熱中するあまり、同じような状況になりつつあるという。いや、もっと酷いことになっているらしい。これからは“ポケモンGO”を真似たゲームがどんどん世に出てくるであろうから、増々事故が起こる確率が高くなるに違いない。この際「SUKIYAKI」の歌詞を見直し、その歌詞の本当の意味をアメリカの人々に知ってもらう必要があるのではないか。任天堂はこのゲームのバックグラウンド曲として「上を向いて歩こう」を採用すべきである。そして著作権料も支払ってあげるべきだ(余計なお世話かもしれないが・・・)。






