2010年5月21日金曜日

二分木 と ルーツヒーリング

 私は毎週1回は、K市にある大学のキャンパスへ講義のため通っている。電車で2時間以上はかかるので、電車事故などでダイヤが乱れると大幅な到着遅れとなって授業にも差し支えることになる。それを避けるため私は二つの通勤ルートを用意していて、順調に運行している方のルートを選んで大学に向かうようにしている。そのため、出勤の日は朝からラジオの交通情報に耳を傾け、家を出る直前にはインターネットで交通の事故情報を確認するのを習慣としている。

 こういった事故情報では、事故原因が“人身事故”となっていることが多い。春先など学期の初めには、特に人身事故に起因する電車事故が多発するようである。人身事故と聞いても我々は何気なく見過ごしてしまうが、たいていは飛び込み自殺であることが多いらしい。多くの人は「また事故か」と自分の被る迷惑の方に関心を向けてしまうが、その陰では人知れず悩んだ末に自身の人生に区切りをつけてしまった人がいるのかと思うと、痛ましいことだと思うのである。

 大学で若者達に接していると、彼らが青年期特有の色々な悩みを持ちつつも、着実に生きていってほしいと思う。新たな環境で学業や仕事を始める時は、いろいろとストレスに直面し悩むことも多いであろう。そういう壁を乗り越えていくための参考になればと、私は授業の中でストレスへの対処法など、多少なりとも役立つような経験談を語って聞かせることにしている。

 少し専門技術の話になるが、私はプログラミングの授業の中で二分木(binary tree)を取り上げることがある。周知のように二分木というのは1つの数値と2つのポインタ(番地)情報から成る構造体データのことである(図1参照:画像の上にカーソルを置くと図番号が表示されます)。
 この二分木の左右の枝に同じ構造の二分木を何重にもつないでいって、木構造を構築していく手法を教えているのである(図2)。 左右のポインタの指す先に何もデータが無ければ(図3、点線の矢印で示した部分の枝)、
その枝を書かないで済ますことにすると、図4のように表わせる。 

 この木構造を扱う時、私は何時も家系図に似ているなぁと思うのである。たとえば、図4の上下を逆転させた図5では、AさんとBさんが結婚して子供Xが生まれたことを示す図と考えれば家系図の表現そのままである。このXを自分だと仮定すると、将来、図6のようになるのではないかと想像することができる。

 この図6を見ながら、もし自分が若くして死んでしまったら、ここから派生する下方向への枝はすべて存在しないことになる。今ここに自殺したいと思っている人がいるとする。自分が死んでも誰も悲しむ人はいないから、と後腐れなく死んでしまいたいと考えている。しかし、たとえそう思ったとしてもこの図を見れば思い返してくれるのではないか。将来自分の子孫となるはずの人達が大変な迷惑(?)を被るではないか、と。いや、迷惑と感ずるためには存在しなければならないのだが、その存在そのものを否定されてしまうのである。そのことに思い当ってくれないものだろうか。

 昔見た「Back to the Future」という映画にも似たような場面があった。この図から、そういう教訓的な話が引き出せないものか、と私はかねがね考えていたのである。ところが、これがなかなかうまく説明できないのである。Xが存在しなければ、そこから派生する下向きの枝にぶらさがるすべての二分木が消えてしまうことになる。それを劇的に表現できるような図を作りたいのだが、まだうまくいっていないのである。2次元表示の図では、そういう家系図を作るのが難しいのかもしれない。

 もっとも、今まさに死にたいと思っている人にこんな話をしても何の効果も期待できないであろう。健全な心理状態の人に教えておいて、将来壁にぶつかった時に思い出してほしいと思うのである。残念ながら、あまり説得力のある話にまとめることはできそうにないのだが。

 ところで、先日ラジオを聞いていて偶然「ルーツヒーリング」という言葉に出合った。正確には聞き取れなかったが、多分“Roots Healing”ではないかと思う。これは自分の家系図を見て先祖の人々のことを振り返ることによって、心の癒しを得るというものである。なるほど、自分の親類・縁者や先祖の人々がどんな人生を歩んできたか、どういう足跡を残してきたかを知ることは、連帯感を育み、必ずや自分に生きる喜び、希望、勇気などを与えてくれるのではないか、と実感したのである。
 私の“二分木”による教訓話も、あながち的外れではないと勇気づけられたのであった。ルーツヒーリングを加えて、もう少し考察を進めてみようと思っているところである。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「二分木」も参考にしてください。

2010年5月9日日曜日

まっとうな日本語を身に付ける

 速読法というものがある。この技術を身に付けると文章を驚くほど速く読めるようになるらしい。大量の本を短時間で読了できるのなら、試験勉強の時など便利だろうから私もやってみたいと思わないこともない。しかしその技術の核心が、どうやら「文章を読まない」というところにあるらしい。そうだとすれば、やはり二の足を踏んでしまうことになる。

 私は、どちらかというと遅読の方である。ゆっくりと個々の文章を味わって読むような読み方をしている。こういう読み方を昧読(まいどく)と言うのだろうか。心に響くような素晴らしい文章に出合うと、その部分を繰り返し読んだりメモしたりして記憶に焼きつけようとする。後で思い返すと、どの本のどの辺りに書いてあったかまで鮮明に思い出せることもある。だから私は、速読法で文章を読まずに、ただ内容だけを短時間に把握できても、少しも有難いとは思わないのである。もちろん、評論家のように短時間に大量の文書を読みこなす必要のある人には有用な技術なのかもしれないが、特別、速読を必要としない人が、あえて速読する意味はどこにあるのだろうかと不思議に思う。しかし人には、それぞれ好みがあるから他人の読書法についてとやかく言う積りはない。

 私は自分の長い人生の間に、新聞や書物を通じて様々な文章に出合い、それをじっくりと読むことによって自らの貧弱な頭脳に少しずつ知識を蓄えてきた。そのことが自ら文章を書く上での財産となり、役立っているのではないかと思う。本当は、ただ黙読するだけでなく、声に出して読むようにしていればもっと良かったのだがと思う。声に出して読むと、脳を活性化させる(1*)だけでなく漢字の読みを確認する動機にもなり大変に有効なのである。
【注】(1*)周知のように、日本語は表意文字と表音文字で構成されている。その日本語の文章を脳でどのように処理しているかというと、まず文字列を視覚パターンとして後頭葉に描き、既知パターンとの一致を求める。一致したら頭頂葉で意味処理を行い前頭葉で論理処理を行っている。
 つづりと発音とが一致しない言語(英語等)では、頭の中だけで発音してみる過程が加わり脳の聴覚機能が働くが、日本語の仮名を読む時は聴覚機能は働かない。したがって声に出して読めば脳の聴覚に関わる部分が活性化されるのである。
 漢字の場合は文字パターンが複雑なため、最初の後頭葉でパターン処理する段階で、より広い面積が活性化され、他の言語では左脳だけで処理が済むところを右脳まで総動員して処理しなければならない。このように、日本語の文章を読むということは、他の言語に比べて脳のいろいろな部位を活性化させていることが分かる。
 日本語として正しい文章、良い文章を数多く読んでいると、我々は日本語として正しい言い回し、表現方法を自然に身に付けるようになる。それを最初から記述できなくても構わない。少なくとも読んでみて、それが正しい(まっとうな)日本語の文章であるかどうかを判断できる“文章力”は身に付くであろう。

 最近、言葉の乱れが話題になっているが、その原因の一つは本を読まなくなったからだと言われている。たとえば、若者の間で「全然かまいません」とか「全然いいです」という様な言い回しが使われていて話題になっている。“全然”の後には、否定形の表現が続くのが普通だから、使い方に間違いがあるという指摘である。こういう議論になると必ず文法的な議論になり、肯定形が続いている例を持ち出してきて「全然いいです」は正しい使い方である、というような主張が展開されたりする。

 我々は(文法学者ではないから)文章を記述する時、いちいち文法のことを意識したりせず、自分の思いを自然のままに書き連ねているはずである。したがって、読み返してみて不自然な文章は、文法的に正しいかどうかを議論するまでもなく、やはり不自然で、まずい文章なのである。それは到底、良い文章とは言えないであろう。誤解を恐れずに書けば、やはり、まっとうでない“間違った”文章なのである。

 我々は不自然な表現に出合うと、その部分が気になって読みの連続性が乱されてしまうことが多い。不自然さがひどいと、読んでいる文章全体に対する共感が得られず、場合によっては内容全体に対する信頼性さえも失われてしまうことになる。不自然さのない“まっとうな文章”であるかどうかを判断するには、沢山の文章を読んで自分の“文章力”を鍛える以外に方法はない。日々交換しているケータイ・メールのいい加減な文章ばかり読んでいても、決してこの“文章力”は身に付かないであろう。ツイッターの、つぶやき程度のいいかげんな文章を読んでいても、多分得られるものは少ないと思う。私は、プロの書き手によって作られたすぐれた文章に数多く接することを薦めたい。それを続けていれば“不自然さ”を嗅ぎわける“文章力”を自然に身に付けることができると思うのである。

 私は他人の書いた文章を査読したり、添削したりすることを仕事の一部としてやってきた。その時、読んでいて不自然なところは、できるだけ直してあげようとする。「たとえば、こう表現したらどうですか」という程度の指摘であるが。
 先の「全然かまいません」などという表現は、明らかに不自然な表現と言える。私だったら「全くかまいません」と直すところである。“全然”と“全く”の使い分けをうまくすれば簡単に解決する問題なのである。それを知らないから“全然”という表現にばかりこだわって、不自然な文章にしてしまうのではないかと思う。まっとうな文を書けるかどうかは、その人が良い文章をどのくらい多く読んでいるかで決まるのではないかと思う。もちろん私も、まだまだ勉強中の身であり、この拙文の中に「不自然な」記述があるかもしれない。その際は、ご容赦願いたい。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「日本語力」も参考にしてください。

2010年4月22日木曜日

花粉症

 環境省が、今春の花粉の飛散が終息する時期を発表した。それによると、地域によって多少の違いはあるものの概ね4月下旬には終息するそうである。花粉症に悩まされる季節もこれでやっと終わることになる。私は毎年、花粉症で悩まされてきたが、意外なことに今年は何の症状も出なかった。私にとってこれは特筆すべき出来事なのである。この様な経験は今までに一度としてなかったと記憶している。なぜそうなったのか、その原因をつらつらと考えてみた。

 以下のような原因が考えられる。
(1) 花粉の飛散量が例年に比べて劇的に少なかった
(2) 年齢を重ねたので症状が出なくなった
(3) 新しい点鼻薬を使ったことによる効果
(4) 寝具に付着するハウスダストを徹底的に取り除いた

 まず(1)の飛散量だが、今年はニュース等であまり花粉のことが取り上げられなかったような気がする。それは飛散量が少なかったからなのか、それともインフルエンザ等の他の出来事が多かったせいなのか、そこのところはよく分からない。多分、今年は飛散量が極端に少なかったのではないかと思う。

 (2)の年齢によるものかもしれない。噂では、ある年齢(人により異なる)に達すると突然症状が出なくなり全快してしまうという経験談をよく耳にすることがある。私もそういう年齢に達したのかもしれない。もしそうなら嬉しいことなのだが。

 次に(3)は、治療薬の進歩によるものである。毎年、医者から薬を処方してもらっているが、残念ながらそれが効いているという実感はまるでなかった。それでも毎年薬をのみ続けてきたのは、もし薬をのまなかったらもっと症状が酷くなっていたかもしれない、という思いがあったからである。薬をのんでいたからこそ、症状が軽くて済んでいたのかもしれない。のみ薬の他に、時々は点鼻薬を処方してもらったこともあるが、これはすぐ薬がなくなってしまい、まじめに使い続けてきたとは言えない。
 ところが今年は、一日一回(左右交互に1噴霧ずつ2回で、計4回)の噴霧で1容器当たり4週間(!)はもつという薬を処方されたのである。怠け者の私には最適の薬である。これを真面目に噴霧し続けてきた。朝1回「シュッ、シュッ」とやればそれで終わりである。この薬による効果が出たと思いたいところだが、それではあまりにも劇的過ぎる。そんなに急に効く薬はかえって心配になる程だ。

 最後の(4)について、これは布団、毛布、タオルケット等に付着しているハウスダストがアレルギーの原因になると言われているので、それへの対策をしたのである。
 寝具の手入れ交換等は、昔から家内にまかせてきたのでその点への私の関心は薄かった。ところが、ここ数年家内は病気でそういうことが一切できない身になってしまった。そこで、家内の指示にしたがって私が一人でやっていたのである。季節ごとの布団、毛布、タオルケットの入れ替えは、ほこりを吸い込まないようマスクを着けて作業するほどの注意を払ってきた。ここ数年、それを続けていながら、私は気が付いていない点があったのである。

 私のアレルギー症状は春と秋の2回、季節の変わり目に起こることは以前から知っていた。しかしそれが、寝具を入れ替えた直後に起こっていたことに迂闊にもまるで気が付いていなかったのである。自分で入れ替え作業をするようになって2~3年経ってから、ハタと気が付いたのである。なぜ今まで気が付かなかったのか。実に迂闊であった。
 これは寝具に付着しているハウスダスト(主に家ダニの死がいであると言われている)が原因でアレルギーが起こっているに違いない。夜、寝ようとして寝床に入ってから具合が悪くなることがしばしばあったことも思い出された。そこで、布団を入れ替える時に、強力な掃除機を用いて徹底的にハウスダストを除去することにした。布団や毛布の裏と表を、それからベッド周辺を徹底的に掃除することにした。これが功を奏したのかもしれない。

 これらの原因と思われる項目の内、いずれが花粉症の発症を防ぐ上で効果があったのか、今のところ定かではない。しかし多分、来年にはある程度明らかになるのではなかろうか。私の予想では、(3)(4)のいずれかではないか、あるいはその両方かもしれないと思っている。
 しかし、往々にして問題の原因が複合的に関わっていることがよくあるものだ。一つの原因で、事がすべて解決するという程単純なケースは稀ではないかとも思う。私が関わってきたコンピュータのソフトウェア開発という分野では、トラブル発生の原因は、大抵は各種の要因が複合的に問題解決に関わっていることが多かった。その教訓に従えば、そう単純に物事が解決するとも思えない。来年もまた根本的な解決には至らない恐れもある。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「原因の究明」も参考にしてください。

2010年4月5日月曜日

ウイルス感染 と 感染恐怖症候群

 3月26日、厚生労働省は新型インフルエンザの集団発生に関する観測を当面休止すると発表した。新型インフルエンザの大流行も、やっと一段落したようである。

 確か、昨年の暮れの頃は新型インフルエンザが日本に上陸し、その流行が本格化した頃であった。その結果日本では、誰もが感染を予防することで必要以上に神経質になっていたように思う。私も、ウイルスが日一日と我が身辺に迫りつつあることを実感したのを覚えている。もしウイルスが我が家に侵入してくるとすれば、それは同居する孫が幼稚園からもらってくるケースが最も可能性として高いと思っていた。

 ウイルス感染を予防するには、外出時のマスクの着用、帰宅時の手洗いと嗽(うがい)の励行が言われている。しかしマスクを着けてもウイルスは防げないという説もある。手洗いも、かなり綿密に洗わないと意味がないらしい。その結果手の洗い過ぎで皮膚科に来る人が増えたという話を、後になって聞いた。私も、電車の中で吊革を握るのさえ躊躇したのを思い出す。これは 過度の反応、神経質 と言えるであろう。

 電車の中で、酔っ払った年輩の男が二人連れの女学生に向かって「お前らが不潔だから感染するんだ!」などと悪態をついているのを目撃したことがある。その時期、学生を中心とした若者から感染が広がっていたからである。集団生活で接触機会の多い学生が感染源となったケースが多かっただけのことなのだが(誤解、偏見)。

 一方、私の勤め先の大学では、学生がインフルエンザ病欠の証明書を私の所へ持ってくるようになった。その証明書を受け取りながら(恥ずかしいことに)私はいささかひるんでいたように思う。もちろん、そんな用紙からウイルス感染するはずがないことは十分に承知していたのだが(偏見)。
 教室の出入口には常時、速乾性の消毒液が置いてあるのだが、私は決してそれに手をのばすことはなかった。学生達を前にして、あまりに神経質になっている自分を見せたくなかったからである。ウイルス感染など少しも恐れていないという風な顔をしていたかったのである(神経質、見栄)。

 そうこうする内に、とうとう我が家にもウイルスが侵入してきた。それは孫ではなく父親(私にとっては義理の息子)の方からであった。
 その時点で私が考えたのは、これはまずいぞ。もし自分が感染したら授業を2~3回は休まなければならなくなる。下手をすると私の科目が取れないため単位不足で卒業できない学生が出てくるかもしれぬ、という心配の方であった。受講する学生が感染するのと違い、先生が感染したのでは受講者全員に影響する事態になってしまう。休講にしないよう無理をして、かえって感染を広めてしまうことも起こり得る。それに何よりも、先生が真っ先に感染しては、何ともみっともないという気持ちの方が強かった。病気で体調を崩す心配よりも、他人に迷惑をかけるのではないかという心配、あるいは他人からどう思われるかという心配の方が先だったのだ。幸いにして、それ以上家族に感染が広がることはなく、事なきを得たのであるが(過度の心配、見栄)。

 その時の経験から、私はウイルス感染を防ぐのは本当に難しいと実感したのである。ウイルスという敵は目に見えないので、どこから襲ってくるか分からないからである。それに比べ、コンピュータウイルス(eウイルス)の方なら何とか予防する手立てはある。敵はどこにいるか、プロの眼で見ればある程度分かるからである。その点インフルエンザウイルスの方は、まったく手の施しようのない極めて厄介な存在であるように思えた。

 ソフトウェア開発の仕事をしていた頃のことだが、コンピュータウイルスに感染した場合には、その事実をIPA(情報処理振興事業協会)に報告することになっていた(現在はIPA/ISEC(情報処理推進機構 セキュリティセンター)が行っている)。コンピュータウイルスがまだ今ほど多くなかった頃、その集計結果を一度見たことがあった。それによると、2000年から2001年頃にかけて急速に件数が増加していた(図参照)。ところがその件数の多くは「コンピュータに感染する前に検出された」という分類になっていて、「コンピュータに感染した」と報告された件数はそれ程増えてはいなかった。それを見て私は不思議で仕方がなかった。そんなはずはない。これは私の推測だが、恐らくコンピュータがウイルスに感染したという不名誉を隠すため、かなりの件数が「感染前に検出された」という分類で報告されていたのではなかろうか。

 プロのソフトウェア開発者にとって、コンピュータウイルスに感染するというのは大変に不名誉なことである。普通彼らは、感染しないために何をしたらよいかの教育を受けている。その教えにしたがって、感染予防策を日々講じていなければいけないのだが、それを実行していないいい加減な開発者もいる。これはある種のしつけ、マナーのようなもので、それが実行できないようでは“プロの技術者”とは言えない。いい加減な対応によって開発されたソフトウェアが、ウイルス付きで出荷されてしまったという事例もあるくらいである。そうなると会社の信用に関わることにもなる。

 ソフトウェア開発の仕事から離れて以後も、私はこのしつけ・マナーを忠実に守ってきたので、幸いにしてコンピュータウイルスに感染したことはない(こんなことは大声で自慢することではないが)。しかし、今回のインフルエンザ感染の騒ぎを通じて(これは、本物のウイルスの話であるが)実際に感染した人の心理を考える機会を持つことができた。同時に、感染していない人の心理も(!)考えさせられたような気がする。

 日本人の何パーセントが新型ウイルスに感染したのかは知らないが、感染しなかった人も、やはり同じように“感染していた”のではないかと思う。彼らは(私も含めてだが)間違いなく“感染恐怖症候群”に罹っていたのではないか。
 感染恐怖症候群は特に伝染力が強く、その典型的な症状は上記の私の症例、つまり
 ・極端に神経質になる
 ・自分が感染したらどうしようかと思い悩む
の他に、次のような症状をていすることが多い。
 ・感染者を(特に若者を)非難、差別する
 ・手を洗いすぎて皮膚科のお世話になる
 ・外では物に触りたがらない
 ・マスクを買い占める
 ・初対面の人の前でも決してマスクをとらない
 ・………

 これからは、インフルエンザの流行する時期になると必ず“感染恐怖症候群”の患者が多発することであろう。感染恐怖症候群に罹らないようにするには、早めにインフルエンザに罹ってしまって“免疫力”を得るのも一つの方法である。しかし“免疫力”だけでは不十分で、同時に“感染者の心理”も学び取ることが必要であろう。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「ウイルス感染」も参考にしてください。

2010年3月23日火曜日

eウイルスと雑菌

 新型インフルエンザウイルスの大流行は、やっと一段落したようである。今から思うと、あの騒ぎは一体何だったのかと思うことがある。

 一般に“ウイルス”と言えば、インフルエンザウイルスに代表される生物学的なウイルスのことであるが、この世にコンピュータウイルスが登場してからは、単に“ウイルス”と言っただけではどちらを指すのか曖昧になってしまった。もちろん多くの場合、前後の関係から判断してどちらを指すかは容易に判断できることが多い。しかし、たとえば文章の中に“ウイルス”という語が出てきたとき、どちらを指すのか分かるまでにはかなり文脈をたどらなければならないこともある。そこで、正確さを重視してコンピュータの場合には「コンピュータウイルス」と書くことにしたのである。

 ところが、コンピュータウイルスの知識が世間に広まるにつれて、特に断らなくても“ウイルス”と言えばコンピュータウイルスを指すと理解されるようになってしまった。つまり、生物学的なウイルスよりもコンピュータウイルスの方が、我々には身近な話題になってしまったのである。これが良いことなのかどうかは分からない。
 そこに、新型インフルエンザウイルスが登場し、世間を騒がせる事態になった。そして生物学的ウイルスの方が、再び我々にとってより身近な存在に返り咲いてきたのである。

 これからは、単に「ウイルス」と言えば、インフルエンザウイルスが流行る時期は、インフルエンザ等の生物学的ウイルスを指し、コンピュータウイルスが猛威を振っている時期はコンピュータウイルスの方を指す、と巧みに区別しなければならないことになった。これは、かなりやっかいなことである。
 そこで、後発のコンピュータウイルスの方が一歩譲って、これからはコンピュータウイルスは eウイルス と書くことにしてはどうかと思うのである。「eブック」、「eラーニング」、「eメール」、「eコマース」等の前例があるではないか。

 しかし生物学的ウイルスの複雑・精緻な構造に比較して、コンピュータウイルスの構造はいかにも粗雑である。あれは“ウイルス”などと呼べる代物ではなく、精々が“雑菌”程度のものではないかと思う。世のクラッカー達は、あんな雑菌程度のもの(「e雑菌」と呼ぶべきか?)を喜々として作り、自慢げにまき散らしたりしている。まさに笑止千万!ではないか。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「ウイルス感染」も参考にしてください。

2010年3月8日月曜日

怒りの感情を抑えるには

 自分の感情、特に喜びや、悲しみ、怒りなどの激しい感情を抑制するのは大変に難しいことである。私の場合、怒りの感情を抑えるのは特に難しいと実感している。抑制できずに随分と失敗を重ねてきている。

 一般に自分の感情をコントロールするには、まず他人に話して同感してもらえる程度にまで、自分の感情を抑制し平静さや落ち着きを取り戻すことが必要である。
 自分の気持ちを聞いてくれて、それをよく理解してくれそうなのは、やはり肉親あるいは友人など自分の周辺に居る人たちであろう。理解してもらえる可能性の高い順に並べると、
 (1)肉親
 (2)友人
 (3)知人
 (4)見知らぬ他人
のようになるのではないかと思う。
 インターネットの時代では、(4)の見知らぬ他人に理解してもらうことが可能となった。人によっては、(1)(2)よりも(4)の方が、よりよく自分を理解してくれると思う人が増えてきている。しかし、この方法には危険もともなうのである。

 自分の周辺に(1)(2)(3)に該当する人が居なければ、最初から(4)に頼ることになる。インターネット上で、運よく心を癒やしてくれる見知らぬ他人に出会えればよいが、必ずしもそうはならない。出会った人が同感してくれないかもしれない。逆に攻撃されてしまったりもする。あるいは、誰も話を聞いてくれなくて、結果的に無視されてしまうことも起こり得る。そうなると、もはや相談できる相手は誰もいなくなってしまい、逆に怒りや悲しみに火がつくことにもなりかねない。

 我々は、怒りや悲しみに陥って逆境にあるとき、内に引き籠って孤独の中で過ごすよりも外に出るべきであろう。インターネットの世界の見知らぬ他人から解決法を得ようとする前に、見知らぬ他人が生活している実際の世間そのものに、まず出て行くことから始めるべきである。

 周辺の人から同情を得て自分の心を癒やすのもよいが、それは一時的な対症療法に過ぎない。その「怒りや悲しみ」など全く関知しない「見知らぬ他人」と一緒に時間を過ごすのが、一番の解決方法なのである。そして、そんな悩みのことなど何も知らない人々と日々生活するのである。それが、心の健康を取り戻すための一番の近道ではないかと思うのである。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「怒りを抑える」も参考にしてください。

2010年2月2日火曜日

授業に出席することの意味

 学生を相手に授業をしていると興味深い経験をすることが多い。学生の考え方に驚くとともに、考えさせられたり教えられたりすることもある。
 ある時、女子学生がやってきて病気で入院していたので、その間の授業を出席の扱いにしてほしいと言う。「病気で休んだのなら欠席ですよ」と言うと、「病気になったのは私の所為ではないから、当然出席の扱いにすべきです」と主張するのであった。私が受け付けなかったので、彼女は大いに不満そうであった。他の授業では、それで通用していたのであろう。

 このことがあってからは、私は最初の授業の時に「病気で欠席したのを“出席”にして欲しいなどという無理は、言ってこないでください」と念を押しておくことにした。
 ところが、次の授業の時に今度は男子学生がやってきて「この時間は毎週歯科医で歯の治療を受けなければならない時間なんです。ずっと出られないのですべて出席の扱いにしてくれませんか」と言う。「そんなことはできませんよ。欠席は欠席です」と答えると「そんな理不尽な!」とあきれた顔をされてしまった。私の判断が理不尽なことなのだろうか。治療時間は変えられないと言う彼に向って「それでは、直ってから私の授業を受けに来たらどうですか」と言うしかなかった。すると「ずっと治療を続けねばならないので、それでは永久に卒業できません」と言う。あきれた顔をするのはこちらの方であった。

 要するに、彼らにとって授業に出席するということは、授業の内容を学ぶことではなく出席記録を残すことなのであろう。他の先生方は、このような要求をそのまま受け入れていたらしいのである。

 最近の新型インフルエンザの大流行で、大学も特別な対応を迫られることになった。インフルエンザに罹ったら無理に登校せず、休むようにと学生を指導している。後で証明書を発行しそれを提出すれば“出席”の扱いにするよう先生方にも通達が出された。どうやら大学側も、出席記録にこだわっているらしい。こうなると私も、インフルエンザ病欠者を“出席”の扱いにせざるを得ない。しかし、その間に出された課題を欠席のために出来なかった学生はどのように扱ったらよいのだろうか。出席記録の変更だけで事が済む話ではないのである。

 一般社会では、インフルエンザに罹ったからと言って会社が出勤扱いにしてくれる訳ではない。無理して出勤するか、あるいは休むかは自分で決めなければならないのである。そこで大人の判断が求められるのだ。普通は休むであろうが、自分が出かけて行ってその日の内に手続きをしなければ会社の存続にかかわるような問題を抱えているのであれば、当然出かけていかなければならないであろう。休んでしまって、後でインフルエンザに罹ったからと言い訳はできないのが一般社会のルールである。社会人ともなれば、常にどう行動したらよいかと自分で適切に判断しなければならない。それを出来るのが社会人なのである。

 インフルエンザに罹った学生に対して“出席”の扱いを認めるのは、実は学生を一人前の大人とみなしていないことを意味するのではないか。出席記録を残したくて無理に登校し、それが原因でインフルエンザ感染が広がってしまっては困った事態になる。大人ならどう行動すべきか自分で判断することが出来るが、学生の場合はその判断が出来ない可能性があるから、一律に“出席”の扱いにしているのである。私は学生にこう話している。「君たちは一人前の大人とみなされていないんですよ」と。
 学生は「“出席”の扱いにしてもらえた」と喜んでばかりいてはいけないのである。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「大人の判断」も参考にしてください。