2013年7月2日火曜日

“つぶやき” は誤訳ではないか?

 私は Twitter を使ったことはないが、有用なツールであることは十分に理解している。しかし“Twitter”を“つぶやく”と日本語訳したのは間違いだったのではないかと思う。

 そもそも“つぶやく”というのは、自分の思いの一端がポロっと出てしまった時に用いる表現ではないかと思う。本来、人に伝える積りではなかったものが、心ならずも外部に発せられてしまったという感じである。したがって、独り言の一種ではないかと思う。誰もが最初はそういう理解のもとで、気楽に、自由に、そして(ある意味で)無責任に、発言している積りだったのに、実はそれが世界中に聞こえてしまうような環境で発せられていた、という重大性に誰も気が付かなかった。

 多くの人に自分の思いを正確に伝えるのは難しい。ましてや、つぶやき程度では到底無理なのだ。それが、現在世の中を騒がせている政治家、官僚、あるいは一部の有名人の引き起こす舌禍(筆禍)事件の原因ではないかと思うのである。

 有名人でなくても“炎上”という懲罰を受けることがあるから、私も表現には気を付けたいと思う。誤解のないように、詳しくは「つぶやきの病理」を参照してくださいネ。

2013年6月22日土曜日

土光さんとメザシ

 今朝の新聞に「土光敏夫さんとメザシ」の話が載っていた。晩飯をメザシですます質素な生活をされていたという話は有名である。当時私も、テレビでご夫婦がメザシを食べている食卓風景を見た記憶がある。そのとき、メザシとは随分大きな魚なんだなぁ とちょっと違和感を覚えた。後年、そのときの事情に詳しい人に聞いたところでは、土光さんが普段食していたのは、本当は“メザシ”ではなく“にぼし”だったのだそうである。土光さんがにぼしを食べているのではあまりにまずい(「美味しくない」という意味ではない)ので、無理やりメザシに替えてもらったのだそうである。
 これは、人伝に聞いた話であるから真偽の程はわからない。しかしあのとき土光さんが憮然とした表情で大きなメザシを無理やりほおばっていた様子を思い出し、なるほどと合点がいったのであった。

2013年5月27日月曜日

しっぽの痛み

 私は毎日70分程のウォーキングをしている。腰部脊柱管狭窄の影響で足裏にしびれがあるので、砂利道を素足のまま歩いているような感じのウォーキングである。正直に言うと、もはや“しびれ”ではなく“痛み”と言ってもいいくらいの状態である。しかし、できるだけ痛いという事実を忘れて、自然の姿勢のまま歩くよう努めている。

 最近は、その砂利の中に“釘”が混じっているのではないかと思う程の痛みに突然襲われることがある。そういう時は少し歩幅を狭めてゆっくりと歩くけれど、基本的にはそのまま歩き続けることにしている。決して立ち止まったりはしない。そうしていると、次第に“釘”の痛みは弱まっていく。

 足を怪我している場合の痛みなら、多分私は歩き続けるのは難しいと思う。しかし脊柱管が狭くなっていて、そこを通る神経が圧迫されその刺激が脳に伝えられているだけだと考えれば少しは気が楽になる。問題は、脳がそのノイズを「痛み」の信号と錯覚しているだけのことなのだ。だから私は「これはノイズだ!」「ノイズだ!」と自分自身に言い聞かせつつ我慢して歩いているのである。
 そしてその間に、自然と「痛み」というものについて考える機会が多くなっていった。

 事故で足を失った人が、今は存在しないその足の特定の部位に「痛み」を感じるという話をよく聞く。このことは、実際に痛みを感じているのはその特定部位ではなく、脳の方で感じているのだということを明白に示している。

 人類はその昔、尾を持っていたと言われている。尾を踏まれたらさぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われたその尾の神経の一部が、もし今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々も体験することができるのではないか。つまり、今は存在しない部位であっても「痛さ」を通じてその存在を感じることができるのではないか、などとしょうもないことを考えながら歩いているのである。

 ところで、あなたは「しっぽの痛み」を感じたことがありますか?
 えっ? そんなの感じたことはない?
 そうでしょうね。今まで一度も尾を踏まれた経験がありませんからね。
 しかし私は子供の頃から何度も経験しているような気がするのです。
 いじめにあって、しっぽを踏まれた経験が。

 身体のどこが痛いかその部位を具体的に示せない場合、子供はとりあえず「腹が痛い」と言ってごまかします。しかし大人になると、その痛みのことを「心の痛み」と言って区別する智恵を身に付けます。しかし、あれは「しっぽの痛み」と言うべきではないでしようか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言いますからね。私もこの際一度、自分の「心の痛み」と向き合ってみようと思うのです。
 「痛っ!」 また“釘”だ!

2013年4月29日月曜日

人との出会い

 新聞を読んでいたら、45年ほど前の日本初の心臓移植の話が出ていた。
 1968年、札幌医科大学付属病院で心臓外科の和田寿郎教授により脳死状態の若者から重症の心臓弁膜症と診断された少年への心臓移植が行われた。少年は6日後に意識を回復。当時心臓外科1年目だったK氏は「覚醒状態は短く、記者を呼んでの写真撮影では、私がベッドの下で足をつねって目覚めさせた」と打ち明けている。車いすで散歩するまでに回復したが、術後83日目に死亡した、とある。

 よく知られているように、その後脳死判定がいい加減だったとか、少年は心臓移植を必要とするほど重症ではなかったとか、色々と疑問点が出てきた。そして和田教授は「栄光の医師」から一転「疑惑の医師」となってしまった。その結果「和田心臓移植」は、移植医療そのものに不信感を植え付けてしまった。

 このK氏こそ、私が米国アリゾナ州のフェニックス市に仕事で1年間滞在していたとき、家族ぐるみでお付き合いさせていただいたあのK氏である。時系列で考えると移植事件の数年後のことではないかと思う。当時日本中を騒がせた事件に関係していた方であるとは、私は全く知らなかった。どういう仕事をしているかはお互いに知ってはいたが、仕事の内容には全く触れることがなかったからである。帰国後も、私の家内は奥さん同士で毎年の賀状交換を続けてきた。

 新聞の記述によれば、K氏は心臓移植がしたくて心臓外科を志した。「移植したかった。今も一抹の未練はある」長く空白の期間が続いたことに「あれだけマスコミにたたかれてはね。ただ、心臓外科医が和田移植を『移植できない口実』にした面はある」と述べている、とのこと。

 今になって分かるのだが、当時のK氏は傷心の思いで海外の病院勤務をされていたのであろう。人生における人と人との出会いには、後年になってから初めてその意味が分かる事もある。どんなに短い出会いであろうと、人との出会いは大切にしたいものである。

2013年3月29日金曜日

桜の色の法則

【桜の色の法則】
 桜の花の色は、思い出す度にそのピンク度を増していく。

2013年3月28日木曜日

桜の花の色について

 最近の桜の花は、昔に比べて白くなっているのではないかと言う人が多い。もちろん桜にも色々な種類があるが、ここでは染井吉野に限った話である。

 その理由として、次の二つが考えられる。
(1)単なる気のせい

(2)紫外線の影響
 高齢者は紫外線を長年浴びてきたので色覚に異常が生じ、そう感じるだけ。

 成程、高齢者が派手な赤い衣服を着ていて時々違和感を感じることがあるが、本人は茶系のシックな身なりをしている積りなのだという話を以前聞いたことがある。それと同じことなのかもしれない。
 しかし若い人の中にも「白くなっている」と感じる人が多いというから、必ずしも色覚異常だけが原因とも思えない。

 もう一つある。
(3)勘違い
 これは私の感想だが、“桜”と言えば“入学式”を思い出すように、校門の前で親子の晴れ姿を写したものをよく見かける。パンフレット等に載っているそういう写真では、必ず背景に桜が入っていることが多い。“入学式”をアピールする際に使われる典型的なパターンといえよう。しかもその桜の花の色合いは桃の花かとみまごう程の強いピンク色なのである。そういう写真を長年見せられていると、誰でも桜の花の色と言えばこの強いピンク色であると頭の中に刷り込まれてしまうのではないか。

 年配者の思う桜は入学式と結びつき、ただ思い出の中にある遠い昔の桜を見ているに過ぎない。そしてその桜の花の色は、後から刷り込まれたものであろう。何しろ彼らの時代は、モノクロ写真全盛の時代であったから、当時の桜の花の色などどこにも記録されてはいないのである。

 昨夜、雨戸を閉めようとした時、庭にある満開の桜の木から白い花びらが、静かに、静かに、降り続けているのに気がついた。人けのない暗闇の中で、ただ黙々と自分の役割を果たし続けているかのように見えた。

     霏々として 桜降り積む 雪の如くに (字余り)

 しかし今思い出してみると、あれはピンク色の花びらだったような気もしてくる。勘違いであろうか。
 桜の花が、次の日曜日までもってくれると良いのだが…。

2013年3月16日土曜日

私の特製マスクとメガネ

 杉花粉の飛ぶシーズンもそろそろ山を越える頃ではないかと思う。
 最近の私は、外出に際して、リストアップしたメモを用意しておかないとつい忘れてしまいそうになるくらいに色々な準備作業が必要となっている。それを逐一紹介する積りはないが、その中でもまず特製マスクは必須のものである。

 「かぜ、花粉、ほこりを99%カットする」と称する使い捨てマスクを二重にして着用する。これにより99.99%位までカットできるのではないかと期待しているのである。
 もっとも、マスクを二重にしてもカット率は99%のままだと主張する人がいるかもしれない。最初のマスクを一度通り抜けてしまった異物は、次のマスクはそのまま100%通過してしまうという可能性もあるからだ。しかしカット率というのは、不織布から成るフィルターの繊維状部分に、異物が引っ掛かるかどうかの確率の問題と考えれば、再び99%はカットされるのではないかと私は思うのである。

 更に私は、二つのマスクの間にウェットティッシュを一枚、四つ折りにして挿入することにしている。これでカット率は更に増すのではないかと期待している。多分(超楽観的に見て)99.995%位にはなるのではないか。これで、普通の人よりはカット率の高い特製マスクをしていると(密かに)自負しながら外を歩いているのである。

 実はマスクを二重にすると更なる利点があるのだ。マスクが少しきつくなり顔面にぴったりと装着されるので、少し動いたくらいでは隙間が生じることがない。普通にマスクをしているだけの人を見ると益々気の毒になってくるのである(これ、全くの独りよがりですけどね)。

 今年は花粉症の症状がまったく出ていないから、これで効果があったのであろう。ただし眼のかゆみの方だけはどうにもならない。花粉除けのメガネを購入して外出時のみ着用しているのだが、マスクから漏れる呼気のためにガラス面が直ぐ曇ってしまって前がよく見えなくなる。結局メガネなしで歩くことになってしまう。

 ただ、ウオーキングの際だけは役に立っている。多摩川の河原に出てサイクリングコースを歩く時は虫除けになるからである。啓蟄の日以降の暖かい日で風がない日は大量の虫(何という虫かは知らぬ)が飛び交っていて、両手で追い払っても「全くの無駄」と最初から分かるくらい大量に押し寄せてくる。その中をジョガーやサイクリスト達が走り抜けて行くのである。私もその時だけはメガネを着用して何事もないような顔をして歩いている。メガネなしの人達が気の毒になるくらいのものだ。

 最近は、黄砂や PM2.5 も西の方の国から飛んでくるらしい。世間では PM2.5 で大騒ぎしているが、昔の日本の公害騒ぎの際にも飛び交っていたはずである。 PM2.5 は、煙草の煙の中にも含まれているという説もあるから、私などは長年の会社勤務の間に受動喫煙でずっと被害を受けてきたことになる。私の特製マスク程度では今更どうにもならないであろう。ただ、唯一の対策として午後“2時50分”頃のウオーキングだけは避けるようにしている。でも、これ全くの誤解ですよね。本当は午後の“2時半”ということでしょう? えっ? それも違う? こりゃまた失礼いたしました。