2016年7月28日木曜日

気分転換(リフレッシュ)について

      ━━ Windows をリフレッシュする

 仕事の途中で気分転換がしたくなることがある。特に研究業務に取り組んでいるようなときは集中度を高める必要があるから連続して考え続けることが求められる(素歩人徒然「集中力」参照)。それにしても、ある程度の時間が経過したらやはり一息入れてリフレッシュするのが有効であろう。

 私の経験では、気分転換にはある程度頭を使う時間を入れるとリフレッシュの効果が倍増するような気がしている(もし許されるなら、ゲームなどをするとよい)。休憩と称してダラダラと時間をつぶしているだけではリフレッシュ効果はあまり期待できない。最近の私は(もはや仕事はしていないが)気分転換が必要なときはいつも数独の問題に取り組むことにしている。それも少し難しい問題の方がよい。

 つい最近、私はラジオで脳科学者が「ワーキングメモリー(作業記憶)」のことを話しているのを聞いた。記憶には短期記憶長期記憶とがあるが、ワーキングメモリーはそのどちらでもない。ワーキングメモリーは、何かある目的を持ってやっている作業で使われる記憶で、日常生活での会話、お金の計算、あるいは創造性のある思考をするときにも使われる。ワーキングメモリーの機能が低下すると「頭のキレが悪くなった」と感じるようになるらしい。

 気分転換でワーキングメモリーが使われると、その内容が入れ替わるからリフレッシュされることになるのであろう。これは、プログラミングの世界で言うところのワーキングストレージ(作業用領域)と似ているのではないかと思う。私は自分が経験的にやっていたことと合致するので我が意を得たりと思ったのである。しかしどこが似ているのか、これだけでは読者に理解してもらうのは無理で、もう少し説明が必要であろう。

 さて、これからが本論である。
 Windows 10を使っていて、いつも気になるのは“シャットダウン”の機能のことである。確か、Windows 8 にバージョンアップしたときからだったと思うが、コンピュータの電源を入れても“再起動”がされないことに気が付いた。つまり、前日にコンピュータをシャットダウンで終了させたのに、翌日電源を入れると完全な再起動の手続きが実行されていないのだ。パソコンの起動を速くするため、手抜きのシャットダウンをしていたのである。

 コンピュータ用語辞典で「シャットダウン」の定義を調べてみたが、次の利用時に再起動が実施されるとは読み取れない。これではMS社にクレームを付ける訳にはいかないなと思った。何しろ昔から使われている用語(*1)だから、今の技術で考えると定義があいまいになってしまうのは避けられない。MS社は、起動時間を短縮するためなら手段を選ばずという方針なのであろう、用語定義の「あいまいさ」さえも利用してしまっているようだ。当時この件で異議をとなえた人はいなかったようだし、気の弱い私めは静観している内にその仕様にやむなく従うことになってしまった(つまり、毎朝自分で「再起動」ボタンを押すことになってしまったのである)。

【注】(*1)昔アメリカの研究所で MITにあるMultics システムの環境下で仕事をしていたとき、コンピュータシステムの電源を落とすことをシャットダウン(shutdown)と呼んでいるのを知った。単にコンピュータ本体の電源を落とすだけでなく、周辺機器も含めてすべてを一斉に終了させる大掛りな作業であるという印象を与えるので「格好いい呼び方だなぁ」と感心したのを覚えている。今風に言うなら「いいね」 をしたくなるほどだった。
 しかし再起動しないで毎日コンピュータを使い続けていると、一週間もしない内に何かしら不可解なトラブルが発生するようになる。そういうときは原因を追究するよりも、自然に直るのを期待して再起動してみるのがよい。MS社に報告しても反応がある訳ではないから、最初から無駄なことはしない方が賢明なのだ。それで結構通用してしまう。MS社と付きあうようになってから学んだ生活の知恵である。

 しかし、そうは言いながらも私はこのトラブルの原因が何であるか知りたくて機会あるごとに考えてきた。そして長年のプログラマとして体験から、多分こういうことではないかと思うようになった。それは、Windows のシステムは「頭のキレが悪くなり」気分転換“リフレッシュ”が必要な状態になっていたのではないか、ということである(これでやっと話の筋が見えてきたでしょうか?)。

 コンピュータ上で動くプログラムは、データを置く場所として静的な記憶域と動的な記憶域とを使い分けている。実行が始まってから必要になるものは、できるだけ動的記憶域に割り付ける方が限られたメモリーを有効に使えるのである。

 利用者のプログラムで動的な記憶域が必要になると、システムのメモリー管理プログラムに要求を出す。システムはあらかじめ確保された領域(ヒープ領域と呼んでいる)から空きを見つけて利用者のプログラムに貸し出す方式をとる。そして、使い終われば返却させる。一方、利用者は借りた記憶領域を責任を持って管理することが要求される。その記憶領域の管理(*2)
で不手際が起りやすいのである。

【注】(*2)記憶領域の管理
 ヒープ領域に割り付けられたメモリは、割り付けた側が責任をもって管理し不要になった場合には速やかに解放してシステム管理下に戻すことが前提となっている。しかし、プログラミング上ではこの解放を忘れたことが原因で不都合が起こることが極めて多い。この種のメモリ管理のミスにもとづくエラーとしては、次の3種類がある。
 ・割り当てた領域を解放し忘れる(メモリリークという
 ・既に解放された領域を参照する
 ・同じ領域を2度以上重複して解放しようとする
 この種のエラーを見つけるのは難しいけれど、普通は事前に取り除かれていると思ってよい。問題があるのは、このヒープ領域上に確保された記憶域上のデータの扱い方のほうである。
 普通は、確保されたばかりの記憶域上に何か値(通常はゼロ)が置かれていても、それはゴミであるとみなし新たに値が設定されるまでは不定であるとする。そして領域が不要になったら(データの後始末をせず!)そのままメモリー管理プログラムに返却する(この過程で、ヒープ領域内のその記憶域はゼロでない不定の値を持つようになる)。

 こういうやり方でメモリー管理をしていると、ヒープ領域は最初はゼロで埋められていても、時間の経過とともに徐々にゼロでないゴミ(不定の値)で埋められていくことになる。新たに貸し出される領域には、直前の利用者が残したデータの残骸が置かれている可能性が高まってくる。しかし、たとえゴミが残されていても管理規則を守って使っている限り何の問題も起らないはずなのである。ところが割り付けられた直後の“不定の値”をデータとして使ってしまう不心得なプログラムが存在するのである。こういう不心得なプログラムを見つけるのは極めて難しい。

 私は、ある大きなシステムの開発を担当していたとき、デバッグ中に限りメモリー管理プログラムに手を入れて、記憶域を割り付けた直後は必ずゼロを埋めておくという手を打ったことがある。こうすると確実にプログラムデバッグができることを体験的に知っていたからである。しかし常にゼロクリヤーしていたのでは実行効率は悪くなる。デバッグの最終段階でこのゼロクリヤーを外すことにした。しかしその途端にプログラムの動作が不安定になったのを覚えている。明らかに不定の値が影響を及ぼしていたのである。

 つまりトラブルの原因は、ヒープ領域のゴミを誤ってデータとして使ってしまうことに起因しているのではないか、というのが私の推測である。
 これを避けるにはヒープ領域をゼロクリヤーするしかない。つまり再起動すればよいのである。再起動という気分転換(リフレッシュ)をすれば、すべて解決してしまうのだ。こういう事態を予想して私は毎朝必ず「再起動」を指定してからコンピュータを立ち上げるようにしている(*3)
【注】(*3)Windows 10では、高速スタートアップのための「シャットダウン」が標準になっているが、再起動を含む「完全シャットダウン」に設定を変えることもできる(私は標準仕様で通す主義なので使ったことはないが)。
 皆さんも、時々は窓(ウインドウ)を開いて空気を入れ替え、リフレッシュしたらどうでしょうか。

2016年7月18日月曜日

“上/前を向いて歩こう”

 永六輔さんが亡くなった。
 久しぶりに名曲「上を向いて歩こう」をじっくりと聴いてみた。これは失恋の歌である。中村メイ子に結婚を断られたとき、永さんが涙をポロポロとこぼして泣いたのがこの歌詞が生まれた切っ掛けになったという。この歌がアメリカで「SUKIYAKI」というタイトルで歌われているのは、私にはどうにも理解できないことである。永さんも無念であったに違いない。確か、著作権料を支払われる対象にもなっていないと思う。その点でも無念であろう。

 ところで、世間では“歩きスマホ”が原因で、歩行者の間でいろいろな事故が起こり問題となっている。スマホの画面に見とれたりしないで“前を向いて”歩いてもらいたいものだ。歩きながらスマホを利用したら、システムが素早く危険を察知し“前を向いて・・・” いや “上を向いて歩こう”のメロディーが自然に流れ出るようにしたらどうであろうか。

 アメリカでは“ポケモンGO”に熱中するあまり、同じような状況になりつつあるという。いや、もっと酷いことになっているらしい。これからは“ポケモンGO”を真似たゲームがどんどん世に出てくるであろうから、増々事故が起こる確率が高くなるに違いない。この際「SUKIYAKI」の歌詞を見直し、その歌詞の本当の意味をアメリカの人々に知ってもらう必要があるのではないか。任天堂はこのゲームのバックグラウンド曲として「上を向いて歩こう」を採用すべきである。そして著作権料も支払ってあげるべきだ(余計なお世話かもしれないが・・・)。

2016年6月17日金曜日

依存症

----- コンピュータに係わる依存性
 元野球選手の覚せい剤取締法違反事件以来、我々は“依存症”というものの実態にかなり詳しくなったような気がする。
 昔は、依存症は単に“~中毒”などと呼ばれていた。アルコール中毒、ニコチン中毒、薬物中毒などいろいろあるが、要するに本人が努力さえすればやめられる類いのものと安易に考えられていたふしがある。しかし最近の科学の教えるところによれば、依存症の多くは脳に何らかの影響が及んだ結果であることが分かってきている。なかなか一筋縄では脱け出せない病気のようである。

 コンピュータの世界にもいろいろな依存症がある。ネット依存ゲーム依存メール依存スマホ依存、…。今後も新たな依存症が続々と登場してくることであろう。何事であれ、好きなことに熱中するのは良いが、度が過ぎて依存性が病的に進んでしまい「依存症」と呼ばれるようになるのは避けたいものである。


メール依存

 私が最初に依存性を意識したのはメールの利用であった。
 先ず、日々の仕事環境の中に電子メールが登場した。勤務先の全社的なメールシステムが利用できるようになり、そこで私は電子メールの基礎をその利点・欠点も含めて体験的に学ぶことができたのである。電子会議、電子掲示板、… などいろいろな交流形態があることも学んだ。そして、こんな便利なものはないと私はそのとき心底思ったのである。

 その後、一部の管理者だけは会社外から(つまり自宅から)電話を利用して会社のメールシステムにアクセスできるようになった。こうなると、帰宅後あるいは休日に家でも仕事ができるようになった。仕事関係のメールは、家から電話で会社のメールサーバーを呼び出して送信すればよい。電話回線を利用したデータ通信がまだまだ高額の時代だったので、文書をあらかじめ作っておき回線が繋がったらすぐさま送信して直ぐ切るというテクニックが必要であった。そういう、今から考えるとかなり不便な環境ではあったが、着実に私のメール依存性は深まっていった。

 休み明けの月曜日に出社してコンピュータのメールボックスを開くと、休み中に私宛てに送られてきたメールが大量に溜まっている。朝一番で最初にする仕事は、そのメールを一度に処理することであった。回答が必要なものはその場で返信を書くが、そのまま内容を読んで済ますだけのものもある。読むに値しないものも含まれているが、仕事に関係するものであるからいい加減には扱えない。お茶を飲むのも忘れて一心不乱にメールと格闘していると、それだけで午前の業務時間が終わってしまう。最初の頃はそれで物凄く仕事をしたような気になっていた。何しろ、午前中一杯脇目も振らずに業務に取り組んでいたのだから。

 しかし、あるときふと気が付いた。自分はこの間何か生産的な仕事をしていただろうかと。ただメールを処理していただけではないか。自分は、技術者として何かを生み出す仕事を期待されているのだ。メールの時間を削減しもっと生産的な仕事に取り組まなければいけないと思ったのである。それ以来私は、メールを使う時間に制限を加えるようになった。つまり、限られた時間帯だけメールと向き合うことに決めたのである。それ以外の時間帯は決してメーラーには触れないようにする。それには、普段はメール環境から距離を置くようにしよう。そう、断じて!そう決めたのである。

 インターネットの発展に伴いインターネットメールが実現し全世界的に使われるようになったのはその後のことであるから、そのかなり前から“メールの依存性”というものを意識していたことになる。しかし、依存症の本当の恐ろしさを知るようになるのは、インターネットが本格的に普及しネット依存、ゲーム依存などが原因で死者が出る事件が報じられるようになってからのことである。

 その後の科学技術の発展はメール環境から距離を置くという私の決心を脅かす様々な要因を作り出し、それとともにコンピュータに係わる環境は急速に変化していった。パソコンの普及、インターネットの常時接続、高速通信と廉価な通信料金、… そしてスマホの登場、… などである。その点では、現在のコンピュータ環境に慣れている多くの若い方々は気の毒だと思う。常に、新たな依存症の危険に曝されているのだから。

 現在でも、私の決心は「メーラーに触れるのは自分の書斎机の前に座っているときだけ」という形で継続されている。スマホなぞは、メール環境自体を常時持ち歩いているようなものであるから、私にとっては最大の敵なのである。

ゲーム依存
 もう一つ熱中したものとしてコンピュータゲームがある。パソコン黎明期の頃から各種のコンピュータゲームを体験してきた。しかし私は何かあるゲームが気に入ったとしても、同様のものを自作したいという気持ちが強くなる性格だったので、そのプログラム作りの方にすぐ関心が向いてしまう。そのため、幸いにも依存症を起こす程熱中することはなかった。

 しかしこの文章を書いていて思い出したのだが「倉庫番(*1)という有名なゲームだけは別格であった。私は当時、何か仕事に疲れると気分転換と称して倉庫番にチャレンジするのが習慣になっていた(もちろん自宅での話ですよ)。今も、久しぶりにまたやってみようかな‥‥ という気持ちになっている。もしかすると依存症寸前の状態にあるのかもしれない。
【注】(*1)倉庫内に点在する荷物を、一つずつ決められた場所に移動するゲームである。目的は単純だが、進行方向に荷物を押すことしかできない。最近の版では、最新の Windows 環境で動作するようになっている。

 しかし私が持っている倉庫番は、初期のバージョンなので現在の最新のコンピュータ環境下では残念ながら動作しない。そこで、倉庫番が動くはずの古いコンピュータ(Libretto 60 + Windows 98)を引っ張り出してきて、その上で動作させなければならない。どれ、ちょっとやってみようか。


倉庫番の画面

 倉庫番のプログラム自体は、外部ハードディスク(HD)上に大切に保存されているから、それを取り出して Libretto 上のHDに移して動作させればよい。しかし古いバージョンなのでフロッピーディスク(FD)ドライブが必要になる。以前ゲームを楽しんでいた頃は、FDドライブ付のコンピュータが普通だったが最近のコンピュータにはFDドライブなど付いていない。急遽FDドライブと3.5インチのFDとを探し出してきて接続した。よし、動いたぞ!
 やはり、こういう古い物も捨てずに取っておくべきなのだ。

フロッピーディスク(FD)ドライブ付きのコンピュータ

 私が熱中したゲームにはもう一つ3次元テトリスがあるが、これは瞬発力を競うゲームである。それに対し倉庫番は、思考力を試すゲームであり奥が深いので私の最も好きなタイプのゲームである。この原稿を書きながらも、私はまたもや気分転換が必要になったと称して倉庫番にはまり込んでしまいそうな気がしている。困ったものである。

 このように倉庫番依存症(?)が再発したのは今回が初めてではない。確か十数年前にも同じように再発していたから3度目ということになる。先回は、50画面をすべてクリヤーしても症状が治まらず、最後には自分でも新たな問題を創作したりした。それで一応症状は治まったのである。今回はどうなるであろうか。

 あっ! これ以上原稿に向き合っているひまはない。倉庫番、倉庫番、・・・・・・。■

2016年5月27日金曜日

過去の思い出

          ── SNSで永遠に投稿し続ける方法
 私が利用しているSNSでは、最近になって新しい機能が追加され、自分の過去の投稿内容の中から数年前のものを選んで「過去の思い出」として再掲示(*)するよう勧めてくれるようになった。普段から寡黙な私めは、月に数回程度しか投稿しない不熱心なメンバーであるからして、これを「ヒントを与えるからもっと熱心に投稿せよ」という怠惰な私に向けてのSNS管理者からの警告であると理解した。

 しかし過去を振り返るよりも前を向いて進むことを信条としている(えっ? 本当かよ)私めとしては、そう簡単に説得されてたまるかという意地がある。そのため、これまではそういった勧めをすべて無視してきたのである。ところがある時「再掲示」を勧められた記事の内容が、たまたま最近亡くなった友人に関係するものだったので、ふと追悼したいという気持ちになり「再掲示」することに同意したのであった。

【注】(*)詳しく調べてみると、過去の年の同じ日付けに投稿されたものが毎日表示される機能らしい。コメントを追加するだけでなく、本文そのものを編集することもできるようになっている。

 以来、再掲示の勧めに乗ることが多くなり、後ろを振り返ってばかりいる見苦しい事態になってしまっている。ところが、これが思いのほか楽しいのである。なぜかと言うと、以前何を書いたかなど本人は正確には覚えていないから、私も他の方々と同じように第三者の立場で自分の過去の文章を初めて読むような積りで読んでいる。そうすると、ほとんどの場合、私と全く同意見なのである(当たり前じゃ)。ふむ ふむ そうだ そうだ と実に気持ちよく合点しながら読めるのである。全く年寄りの独りよがりというべきであろう。

 SNSの世界で新たに「友達」となった人たちが最近増えているので「再掲示」されたものをその新しい友達に読んでもらうのは、それはそれで意味のあることだ、などと無理やりこじつけたりしている。

 ところが怠け者の私めは、ここで素晴らしいアイディアを思い付いてしまったのだ。
 この機能をうまく利用すれば、私は新たな投稿などしなくても「過去の思い出」だけでSNSの世界で生きていけるかもしれない。齢を取るとどうしても創造的なアイディアが枯渇してきて、新たな投稿の種を生み出すのに四苦八苦するようになる。もうそんな心配はしなくてよくなるのだ。

 自分のアイディアが枯渇している事実を他人に知られないよう、過去の思い出に少しばかり色付けをして新たな投稿のように見せかければよいのだ。今や人工知能を使って小説が創作できる時代である。「過去の思い出」の中で使われているキーワードのいくつかを使って、ちょっとしたコメントを創作することくらい簡単なことであろう。

 これが成功すれば、つまり「過去の思い出の自動修飾」の技術さえ確立すれば、もう私は何もしなくてもよくなるはずだ。 …などと、私めはこれからやってくる怠惰な生活を夢見ているのである。

 ところで、その結果どういうことになるのだろう。もう無い知恵を絞ったりしなくですむ。そうなると頭を使う機会も減るから、認知症になるのは早いかもしれない。あるいは何時、死んでも誰にも気づかれないから、そのまま放置され孤独死することになるかもしれない。


 うむ、それは困ったことだ。やはり、無い知恵を絞り続ける方がよいのかもしれないなぁ~。

2016年5月18日水曜日

  ── 立ったまま使う机(スタンディングデスク)

 私は兼ねてから立ったまま使える机が欲しいと思っていた。
 人間、座ったまま長い間ずっと同じ姿勢でいるのは身体によくない。熊本地震のような自然災害に合った人たちが被災地で車中泊を続けているとエコノミークラス症候群になりやすいことはよく知られている。

 私は、自然災害とは関係ないけれど、自分の不注意から同様な経験をしているのだ。その結果、血栓が右足のふくらはぎ深部にできてしまい、それを直すのに実に3年を要している。そんなこともあり、私は30分インターバル運動というのを実践することにした。書斎で椅子に座り机に向かって何か仕事をしているときでも、30分経つと必ず立ち上がって身体を動かす習慣を身に付けようとしたのである。

 しかし身体を少し動かした後、又そのまま座ってしまったのではあまり効果は期待できない。しばらく立ったままで仕事を続けられるようにしたい。そんな訳で、立ったままで普段の机と同じように使える背の高い机が欲しくなったのである。

 同じ部屋にもう一つ別の机を置く余裕などないので、隣の部屋にある本棚の上を机代わりに使うことにした。高さは申し分ないのだが残念ながら立ったまま同じ仕事を継続したいという希望の方は実現できていない。

 昔、松江市の小泉八雲記念館を訪ねたとき、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が使っていたという高い机(*1)を見たことがある。私はネット上で同じようなものがないか何度も捜してみたのだが、結局は見つけることができなかった。特注品でもよいから、あの様な机が欲しいと私はかねがね考えていたのである。

【注】(*1)私の脳裏には、椅子なしの背の高い机だけが記憶されていたが、後で調べてみると立派な椅子が付いていたようだ。小泉八雲は身長が約160cmと低い上に眼が極度に悪かったため机の面に顔を近づける必要があった。そのため背の高い机を特注したらしい。決して立ったままで使うための机ではなかったのである。
小泉八雲の机

 そんなある日、私のコンピュータ画面上に突然 の通販広告が表示された。それは私が兼ねてから欲しいと思っていたそのものズバリの机であった。これだ! これしかない! 私は早速購入することにした。現在、私の書斎の机の上に置いて便利に使っている。

書斎机の上に乗せて 

 インターネット上で何か調べたい物を検索したりすると、通販業者はその検索履歴を参考にしてその利用者が関心を持つと予想される商品を売り込もうとする。そして素早くSNSなどの画面上に同種の物の通販広告が頻繁に掲載されるようになる。私は今までそれを鬱陶しく思っていた。特に欲しい物を実際に購入してしまった後では、もう同種の広告など見る必要がない、いや見たくもない。邪魔になるばかりだ。しかし今回だけは本当にありがたいと思った。

 調べてみると、私が最初に検索して発見できなかった頃と比べて業界は著しく様変わりしていた。“スタンディングデスク”と呼ばれる商品群があり検索すればすぐ見つかるようになっていた。私の考えていたことは、少し先走りし過ぎていたのかもしれない。

 スタンディングデスクの、私なりの使い方を以下に紹介することにしよう(以下では、スタンディングデスクを“デスク”と呼び、私の書斎机は“”と区別して用いている)

▼使い方1:10段階の高さ調節が可能
(1)一番高く:
 机の上に乗せて立ったまま使える。机とデスクを一体にして使えるのが最大の利点であるが、デスクだけ別の場所に持っていって使うこともできる。


(2)少し高く:
 立ったまま新聞を広げて読むのに適している。


(3)一番低く:
 椅子に座ったまま机とデスクが同時に使える。


▼使い方2:机上スペースの有効活用
(1)複数のコンピュータ(パソコンとタブレット)を同時に使う場合、机やデスク上の空間、あるいはデスクの下にも厚い本が入る程の十分な空間があるので資料等を置くのに便利。


(2)パソコンのみの場合は、デスクを手元に引き寄せる。


(3)パソコンのみに集中したければ、デスクを更に近くに引き寄せる。


(4)パソコンのキー入力に集中したければ、デスク上でパソコン本体を手元に引き寄せる。


(5)パソコン以外の雑事に取り組むときはデスクを後ろへ押しやり、前に広い空間を作る。


▼使い方3:コンピュータ内の“デスクトップ”の使い方
 コンピュータ内の“デスクトップ”も、この際使い方を見直してみては如何でしょう。

2016年4月21日木曜日

エイプリルフール後日談

 ━━ うるう秒とうるう年
 小学生の頃、エイプリルフールといえば公式に嘘を付いてもよい日と聞いていたので、私は毎年この時期になると張り切って嘘を付いて人をだまそうと思ったものだ。しかし普段から嘘ばかり付いている(?)くせに、いざとなるとなかなか気の利いた嘘を付けないものだということを経験した。そして自分は、きっと生まれつきの正直者であるに違いないと確信した… いや、今から思うと誤解したのであった。

 当時は、新聞のニュースやラジオの番組を通じて嘘が流され、それを真に受けた人たちが大騒ぎするのが後日談として報じられ人々を楽しませてれていた。しかし最近はIT企業などの新興企業が中心になって、かなりの資金を投じて準備された嘘を流すようになってきた。会社の宣伝にもなるのであろう。最初から嘘に違いないと分かっていても、つい本気にして騙されたくなるほどの出来栄えであることがた楽しい。

 今年のエイプリルフールの前夜(3/31)、私は自分のホームページの4月分の更新作業をしていたとき、突然自分エイプリルフールの嘘を仕掛けてみたくなった。小学生時代の楽しかった思い出がよみがえってきたのである。

 丁度、カラークロック・プログラム(*1)をトップページに設定する予定だったので、これを材料にしよう思った。このプログラムは、現在時を24時間表示で「13時45分05秒」のように時々刻々とデジタル表示するものである。同時に「時」「分」「秒」の値をそれぞれ16進数表示で連結し幅6桁の16進数を作って壁紙の色として用いるプログラムになっている。時間の変化とともにバックカラー刻々と変化する様子を見て楽しでもらう積りだった。


【注】(*1)このカラークロック・プログラムは、URL="http://whatcolourisit.scn9a.org/"で見かけたものを参考にした。面白いアイディアだと思い、私も自作してみたのだが、オリジナル版と比べて色調の変化が異なっている。調べてみたらオリジナル版は16進数を連結する際に“ゼロサプレス”が考慮されていないことが分かった。こちらの方が“正調”いや“正しい色調”だと思い、自作版を私のホームページ上にアップすることにしたものである。

 そこで、更新情報を表示する【What's New】の欄に、急遽以下のように記述することにした。

 これは“うるう秒(*2)”を実施するときだけ起こることだが“59分59秒”の次にうるう秒として1秒を挿入した場合、“60分00秒”と表示させることを念頭に置いたものである。何が嘘かというと“興味深い現象”は何も起こらないことである。全く他愛のない無害なウソであるし今年はうるう秒が必要な年でもない。
【注】(*2)うるう秒
 1日の長さ(Length of Day:LOD)は、24時間×60分×60秒 = 86,400秒であるから、歴史的には1秒の長さは、1日の長さの86,400分の1と定義されてきた。しかし実際には地球の自転速度が変動するのでLODは一定ではない。その他いろいろな理由があり、それらを勘案して「うるう秒の挿入」という対応で辻褄を合わせているらしい。
 本当は「59分が切り上がる瞬間に… 」と書く積りだったのだが“60分00秒”が念頭にあったので、うっかり60分と書いてしまった。私の単純なミスであったが、これを読んだ友人のS氏が目ざとく見つけて指摘してくれるまで私は自分のミスに気が付かなかった。しかし嘘だと見抜くヒントにはなったのかもしれない。怪我の功名であった。

 ところで、うるう秒の挿入は世界同時に一斉に実施されるのが普通で、最近では日本時間で2015年7月1日に実施された。それ以後は実施されていない。いや、もう二度と見ることはないかもしれない。

 その日、日本では午前8時59分59秒の直後に1秒挿入され、8時59分60秒となった。そして9時00分00秒と時間が刻まれたのである。つまり(私も今回初めて知ったのだが)正確には“60”という珍しい表示は“”の単位で使われたのである。

 実は、うるう秒の挿入には賛否両論がある。挿入した場合の社会的影響が余りに大きいため今後は実施されないのではないかと予想される。1秒という時間が、現代社会では大きな重みを持つようになっているためである。
 コンピュータの発達で1秒間に数万回もの株の売買取引ができるようになった証券取引業界では、1秒という長ぁ~い時間があれいろいろなことができる。プログラムを利用すば、他の株の売買状況を見て瞬時に対抗する売買指示を出せるのである。
 特許権取得競争が激化する技術開発の分野でも、マイクロ秒単位のタッチの差で巨大利権の行方が左右される時代である。そういう社会で1秒という時間が世界中で一斉挿入され何らかのシステムトラブルが発生したらどうなるのか。想像するのさえ恐ろしいことである。

 この様にうるう秒の問題には未だ未解決の問題が含まれている。一方、うるう年(*3)の方も厳密には問題がある。
【注】(*3)うるう年
 グレゴリオ暦では、次の有名な規則に従って400年間に97回のうるう年を設けることにしている。
(1)西暦年が4で割り切れる年はうるう年
(2)ただし西暦年が100で割り切れる年は平年
(3)ただし西暦年が400で割り切れる年はうるう年
 この規則によってプログラム化しておけば何の問題もないように思われるが、400年間における平均の1暦年は、365+97/400=365.2425日(365日5時間49分12秒)となる。暦と季節とのずれは約3320年で1日となる。この1日をどうするかは未だ未解決の問題である。そんな先のことは考える必要はないと先送りしているだけである。それでいいのだろうか。
 私は、昔から「うるう年」というものに何かある種のいい加減さを感じていた。それが何であるかはよく分からなかったが。
 しかし今回、偶然「うるう秒」のことを調べていて、改めてそのいい加減さが分かってきたような気がする。「うるう秒」も「うるう年」ま、はたまた「閏」という漢字にしても、どうも意味がよく分からない。具合の悪いところを付け焼刃で適当に修正しているように思えるのだ。プログラムの虫つぶしと同じでまるで信用できない。

 最後に、前述のうるう秒挿入時に起こる“60”という珍しい表示はもう二度と見られないかもしれないので、私めは、遅まきながらこのカラークロック・プログラムを改訂し、毎年の4月1日(エイプリルフールの日)だけは“興味深い現象”が見られるようにした。来年の4月1日には(もし覚えていたら)是非じっくりと鑑賞して頂きたいと思います。

改訂版・カラークロック