2017年2月21日火曜日

大統領の紋章


━━ トランプ大統領のモットーは?

 トランプ大統領が誕生して1ヶ月となる。先日、テレビで初の単独会見をやっているのを見たが、自画自賛とメディア批判、そして怒号が飛び交う75分間の会見は「独演会」と言った方がよいようなものであった。こういう内容の会見をこれから4年間ずっと続ける積りなのだろうか。本人は8年間は大統領の座に君臨する積りらしい。それを見続ける側も相当なストレスを感じているが、本人は分かっているのだろうか。本人は何のストレスも感じていないのかもしれない。実にタフな人物だと思う。

 先日の新聞に、アメリカ合衆国大統領の紋章に触れたものがあった。ラテン語で“E PLURIBUS UNUM”(エ・プルリブス・ウヌム)というモットーが、建国の理念である民主主義の原理を表すものであることを紹介し、トランプ大統領がこのモットーとは対極にある理念の持ち主であるようだ、という記事だった。

 その文中でモットーは「多くのものが集まってできた一つ」と訳されていたが、私はモットーとしては練れていない訳だなぁと思った(ラテン語の方は全く分からないけれど)。同時に、今は亡き友人の船津剛男氏が生きておられたら、当然一言あるだろうなと思ったのである。

 船津剛男氏は、コンピュータ関係の仕事の傍ら紋章学の熱心な研究者でもあり、私家版ではあるが「論考集:紋章とモットー」という大著をものされている。


図:「論考集:紋章とモットー」

 病気のため入院される直前に手渡された一冊を私は大切に保管している。それを取り出して調べてみると、彼は合衆国大統領の紋章のモットーを「衆を以て一と為す」と訳されていた。うむ、こちらの方がしっくりとくる。

 解説を読んでみようと思ったが、残念ながら論考集は未完であり「論考その1」から始まって「論考その5」の途中までで終わっている。目次によれば、アメリカ合衆国は、最後の章「論考その9:国家と紋章とモットー」に含まれているはずである。長い闘病生活を予想して急遽まとめられたので最後の章まで含めることができなかったのであろう。続きが読めないのは残念なことである。彼のことだから、目次に出ているものはすべて論考が完了していたものと思う。本としてまとめて公表するには、もう少し確認の時間がほしかったのであろう。それが終わらないまま未完になってしまったものと思われる。


 (図:「論考集:目次」

 彼は生前から多くの友人に、「近況報告」とか「うたたね草子」というタイトルのメールを定期的に送ってくれていたので、そういったテーマの話をしばしば聞いていた記憶がある。幸いにして、私は過去にやりとりしたメールは(船津氏のものに限らず)すべて保存しているので探せば出てくるかもしれない。私は電子メールを始めて以来、何度も使用するメーラー(Mailer)が替わってきたが、必ず古いメール類をそのままの形で受け継いできた。今使っているメーラーにも保存されている。捜してみることにしよう。

 早速「アメリカ合衆国」というキーワードで検索した結果、それらしきものが6件出てきた。



 (図:「検索結果」

 かなり読みでのある量の文章である。それらを本人への断りもなくここに表示するのは許されない行為ではあるが、船津氏の卓越した知識力を知るには最適の機会なので、無断で一部を紹介することにする。メールの文章なので論考集の文体とはかなり異なっています。

 (図:「アメリカ合衆国の紋章」

ご参考までに、アメリカ合衆国の紋章(*1)について少し解説を試みたいと思います。
 アメリカ合衆国の紋章には、色々なものが描かれております。中央にアメリカの国鳥である白頭鷲が描かれています。なお、鷲は、キリストの復活と寛大の象徴でもあり、ハプスブルグ帝国の紋章等にも用いられています。キリスト教では福音書著者の聖ヨハネ(St. Jhon)を表します。その白頭鷲の脚に注目していただくと、向かって右側の(紋章用語でsinister)脚で13本の矢を、左(dexter)脚で月桂樹の枝を掴んでいるのが分かります。鷲の頭上には、雲間に輝く13の星(star)が描かれております。鷲の胸のところには、縞(stripe)の入った旗が置かれています。さらに嘴で帯(strip)を咥えています。よくみるとこの帯には何か文字が書かれていますね。この文句こそ、アメリカのモットーです。ラテン語で次のように書かれています。E PLURIBUS UNUM(*2)(エ・プルリブス・ウヌム) Eは「・・・から」を、PLURIBUSは「多くのもの」を、UNUMは「ひとつのもの」を意味します。全体では「多くのものからひとつのものを」という意味ですが、意訳をすれば「衆を合わせ、一を為す」、すなわち「合衆為一」ということです。衆は、元々は多くの人たち大衆を意味する言葉です。明治期の日本人がアメリカのことをアメリカ合衆国と訳したのはさすがでしたね。

【注】(*1)アメリカ合衆国の紋章は、大統領が公式の演説をする時、国章が必ず演説台の前面や後方に掲げられている。
(*2)メールの原文では PLVRIBVS VNVM となっていたので修正した。

 アメリカ合国ではなくアメリカ合国なのである。“”が合わさった国ではなく、様々な人種から成る大“”が力を合わせて作った国ということであろう。トランプ大統領には是非とも知ってもらいたい事実である。彼は“”というものを読まないらしいから理解してもらうのは無理かもしれないが。

 ところで、目次によれば、アメリカ合衆国のモットー「衆を以て一と為す」の次に
 初代アメリカ大統領ワシントンのモットーとして「行為は、結果次第」(Exitus acta provant)が掲載されている。これもメールで検索してみたところ更に興味深いエピソードが書かれているメールを発見した。しかしこれ以上の無断引用は慎むことにします。

 それより私が言いたかったことは、トランプ大統領にはワシントン大統領のモットーの方が似合うのではないかということである。

  「行為は、結果次第

 それとも、トランプ大統領の現状に最も相応しいモットーを我々で考えてあげたらどうでしょうか。

 たとえば、

  「総ては、思い付きから
  「目的は、成り行きのままに
  「総て、見せかけ
  「王様は、裸
  「不都合は、総て偽情報

などどうでしょうか。

 もちろんラテン語の知識はないのでラテン語表現は専門家にまかせることにします。■

2017年2月11日土曜日

歩き方について

── 転ばないためのコツ
 
 歩きながら考えている。
 私は昔から、歩きながら考えるのを習慣としていた。歩きながら、あるいはウォーキング(以前は、ジョギングだったが)をしながら色々なことを考えている。仕事のこと、趣味のこと、何でも思考の対象としてきた。歩きながら考えていると、しばしば良いアイディアが生まれてくるものなのだ。今、私が考えているのは、歩き方についてである。つまり、歩きながら“歩き方について”考えているのである。

 と言うのは、最近歩いていて非常にショッキングな事実に気が付いたからである。普段道を歩いていたり、スポーツとしてウォーキングをしている最中に、自分が女性の歩行者(あるいは女性のウォーカー)に追い越されている事実に初めて気が付いた。歩行速度はそれ程差がないのに追い越されていく。よく観察してみると追い越して行く人と自分の足運びには大きな差はない。ほんの少し私の方が遅くなっている程度である。しかしその小さな差が、長い距離を歩く内に大きな差となって現れているのであろう。
 そこで、私は考えた。齢のせいで身体の動きが鈍くなってきているのではなかろうか。意識的に少し速く歩く努力をしてみよう。

 会社勤めをしていた頃は、何かに追い立てられるようにせかせかと急ぎ足で歩いていたものだ。しかし会社勤めをやめてからは、追い立てられることもなくなり、何事にも時間的な余裕を持って行動するようになった。以来、ゆっくりとした歩調になったのだと思う。
 それからは、努めて早足で歩くよう努力することにした。しかしある時、駅への道を急ぐ途中で、路面の小さな凹凸にけつまずき転倒してしまった。前のめりの体勢で歩いていたためか、したたかに路面にたたきつけられ両手の手のひらに裂傷を負ってしまったのである。

 そこで、また私は考えた。今まで私は、ゆったりとした気持ちで歩いている積りだったが、実は歩行速度が落ちた原因は体力的な衰えによるものではなかろうか。転んだ時も、危うく顔面から倒れる可能性があったのである。危うく両手をついて身体を支えることができたが、明らかに反射神経の方も衰えているようである。これは「歩き方」を矯正する必要がありそうである。

 思い返してみると、最近つまずいて転びそうになることが多くなっているように思う。足を十分に持ち上げないで引きずるように前に出すのが原因なのだ。もっと腿の部分を持ち上げて、前へ振り出すようにして歩かなければいけない。以来、意識的に腿を上げて歩くよう努力するようになった。しかしこれが長続きしないのである。歩きながら考える癖があるので、しばらくすると直ぐ「腿上げ」のことを忘れてしまう。

 そこで、またまた私は考えた。振り出した方の足を着地させる際に、踵の部分から接地させるようにしてはどうか。常に踵の部分に意識を集中させていればよい。この“踵着地”の方が“腿上げ”よりも意識を集中しやすい。しかも、踵着地を実行していると自然に腿上げができるような気がするのである。更に、後ろの足を力強くキックする気持ちで前方に振り出すと、更に効果的であることにも気が付いた。ただ“後足キック”も“踵着地”も、考え事をしていると、つい忘れてしまうのである。困ったことだ。

 そこで、私は再び考えた。腿上げ、踵着地、後足キックも大切だが、「大股で歩く」ことの方を重視してはどうであろうか。ウォーキングの際は常に大股で歩くことが勧められている。私の経験では、考え事をしていても大股で歩くのを忘れたりすることはない。始終意識していなくても“大股歩行”なら続けられそうに思えたのである。

 以来、私の歩行習慣は、
 ・大股歩行
 ・踵着地
 ・後足キック
 ・腿上げ


を実践することとなった。しかし意識的に実行しているのは“大股歩行”だけである。これだけは、考え事をしていても決して忘れることがない。多分、歩幅を変えるという行為は、意識的に行う必要のある行為に属するのではないかと思う。

 このような歩き方を論ずる(?)場合、手の振り方も考慮に入れなければならないが、私はウォーキングの最中に両腕を大きく振るスタイルがどうしても好きになれない。いかにも「私は運動をしています」と主張しているようで、他の通行人の迷惑にもなるし、自分では決してやりたくない動作だ。さりげなく手を振っている方がよいのではないかと思う。両腕を大きく振る歩き方をしたい人は、自転車と同じ軽車両の扱いにして、車道の左側を歩くようにしてほしいものである。

 もっとも、歩き方で一番大切なのは足元をよく見ることであろう。戸外を歩くのは屋内を歩くのと違って、常に路面に障害物があると覚悟しなければならない。ほんの少しの凹凸でもつまづく危険があるから、常に足元に気を配りながら歩くのが一番大切なことである。

 それにしても、私は生まれて来てこの方「歩き方」について、特に人から教えを受けたという記憶がない。ヨチヨチ歩きから始めて、何となく歩きだし、人並みに歩けるようになり、今日に至っているような気がする。正しい「歩き方」というものは、人生の終盤になって初めて意識的に学ぶ必要が出てくる類いのものなのかもしれない。もっとも「人生の歩き方」の方は、人生のできるだけ早い時期に考えておくべきであろうが。■

2017年1月26日木曜日

東芝カレンダーと東芝病院と

 かつて、私の書斎には常に東芝カレンダーがあった。東芝在職中はもちろんのこと、東芝OBとなってからも、然るべきルートを経由して何とか東芝カレンダーを手に入れてきた。しかし段々とそのルートも細ってきて、最後の頃は東芝健保が送ってきてくれる(少し小型の)ものしか入手できなくなった。

 そして数年前、後期高齢者となり東芝健保を離れることになって以来、東芝カレンダーは入手できなくなってしまったのである。そのとき私は、これで本当に東芝とは縁が切れたのだなぁと寂しい思いをしたのを覚えている。以来、私の書斎には東芝のカレンダーはない。

 今日、東芝病院の総合検診センターで人間ドックの検査を受けてきた。東芝との関係で残ったのは、結局のところ私の“病気”だけ、ということに気付いて増々滅入るばかりである。

 検査がすべて終り食事のためセンターの3階に行くと、受付窓口の前に大きなダンボールの箱が置いてあり、中に沢山のカレンダーが入っていた(もしや!)。「ご自由にお持ち下さい」とある。東芝のカレンダーだ! 私は少し興奮していたので、一瞬「全部持ち帰りたい」という気持ちになっていた。しかしそこはそれ、何んと言いますか、・・・ それそれ「大人の良識」というものがありますから、さりげなく1本引き抜いただけでその場を離れたのであった。

 昨年末にカレンダーを配って残った分なのであろう。そのとき閃いたのである。なるほど1月末というこの時期に人間ドックを受診すれば、あの懐かしい東芝カレンダーが難なく手に入るのだと。素晴らしい方法じゃないですか。もう誰の手も煩わせることなく手に入れる方法を発見したのである。しかし同時に、昨日の夕刊で報じられていたニュース「東芝病院 売却へ」のことも思い出してしまった。あぁ・・・今年限りなんだ!

 さよなら、東芝カレンダー。さよなら、東芝病院。■

2017年1月15日日曜日

情報の永久保存

── 情報コンテンツを永久保存する方法
 
 ウェッブ上に掲載した情報をそのまま永久に保存する方法を考えた。グーグル社の無料ブログサービス“Blogger”上に画像としてアップロードすればよいことに気が付いたのである。
 この方法の実現可能性、具体的に言うと技術的な側面と道義的な側面の両方について読者のご批判を受けたいと思い紹介することにした。私の意図を正しく理解してもらうには、少し回り道になるがこれまでの経緯から始めることにする。

1.これまでの経緯 

ホームページの終活 
 私がウェッブ上にホームページを開設してから今年で満20年となる。構築したホームページが占める領域は時の経過とともに膨大なものになってきている。その上、世の中ではウェッブ上の表現方法がテキスト中心のものから視覚に訴える画像中心のものへと変わってきた。そのため容量不足が増々加速し、画像データの保存法の見直しが緊急の課題となってきた。

 この間、いろいろな経緯があって3つの有料サイトを利用しているので、容量の大部分を占める画像データを3つのサイト間とその他の無料のサイト間に分散して置くなどして何とか凌いでいるのが現状である。少なくとも一か所にまとめて管理したいと思っているのだが、なかなかうまい解決法が見つからない。

 私にもしもの事があった場合の事後処理については、当然のことながら考えてきた。病気などでホームページが長期に渡り更新されないでいると「更新セルフチェック機能」が動作するようになっていて、1ヶ月後、6ヶ月後、1年半後・・・と間隔を置いてお詫びのメッセージが表示され、2年が経つとお別れのメッセージが掲示されるようになっている(素歩人徒然「身辺整理」参照)。しかし有料サイトなので使用料が未納になれば、ホームページは忽ち削除され消滅してしまう運命にある。
 要するにホームページの“終活”に取り組まねばならぬ時期となったのである。

写真アルバムだけは残したい
 私の個人的な情報は消滅して構わないが、どうしても残さねばならないものがある。たとえば、学生時代の同期生のホームページやブログの管理を私が担当しているので、その後始末を考えなければならない。現時点で後継者は見つからない状態なのである。

 小学校、中学校、高等学校、そして大学の仲間たちとの集まりで撮影した写真がアルバム状に編集された形で多数存在する。企業人時代の昔の同僚たちとのOB会で撮った写真もある。これらをどうするか。

 私と同世代の仲間達との記録であるから、遅かれ早かれ私と前後していずれは写真アルバムも消えていくことになろう。見る人がいなくなるのだからそれで構わないと今までは考えていた。しかしホームページやブログの管理をしていると本人以外の人達が結構写真集を見ていることに気が付いた。
 見知らぬ人からいろいろな問い合わせが来る。たとえば、

・自分の父親が長年行方不明で連絡が取れない。消息が分からないか。もし分かったら教えて欲しい。
・海外に長年住んでいるが、偶然ホームページを見つけて日本の昔の級友と連絡が取りたくなった。
・偶然ホームページを見つけ主人のことが書いてあるので・・・と奥様から近況報告が届く。

 つまり当事者だけでなくその親族や関係者も参照しているのだ。私の経験でも、今は亡き自分の父親の名前や祖父の名前で検索を試みると、かなりの情報が得られるのを実際に体験し便利な世の中になったと思ったものである。インターネットの時代では、フルネームの名前(特に漢字表記がよい)さえ分かれば(インターネット時代以前の人であっても)その人に関するかなりの情報が得られる。そして一度情報をつかめれば、そこからまた別の情報が芋づる式に手繰り寄せられるようになる。私たちが作っている写真アルバムはその世代の人々だけでなく、その子孫の世代の人達にとっても将来重要な情報源となる筈である。

 写真アルバムなら Facebook 等のSNS上に置けばいいと思う人がいるかもしれない。しかしSNSでは限られた人しか見られないし、沢山の写真が登録されたアルバムには向いていないと思う。沢山の写真がある場合は、その縮小版(サムネール)の一覧を見ながら個々に参照するものを選べるようにする方式でなければならない。端から端まで順送りにすべて見なければならない方式はなじまないのである。

 そのため、私は写っている人の名前が個々に分かるようにした独自の写真アルバムを作成し公開してきた。この写真集だけは残したいと思ったのである。

2.画像ファイルの保存

さて、ここからが本論である。

画像ファイルはG領域に保存する
 私の利用しているブログは、グーグル社のブログ( https://www.blogger.com/ )なのだが、これを長年使っていて偶然気が付いたことがある。ブログに投稿する目的で画像をアップロードすると、グーグルブログ固有の領域(ここでは“G領域”と呼ぶことにする)にデータが保存され、適当なサイズに調整されて画面に表示できるようになる。サイズを変えたければ「」,「」,「」,「特大」,「元のサイズ」から適当に選んで何時でも(極端な話、何年後でも!)変更することができる。しかも、G領域内の場所さえ分かっていれば、他人のブログからでも参照できる。いや、ブログに限らずウェッブ上のどこからでも参照できるのである。これは私にとって驚くべきことであった。

 つまりブログ上で作成した投稿の“HTML表示”の画面から場所の情報だけを抜き出してくれば、何処でも、誰でも、利用できるということである。最初にアップロードされたデータは常にG領域中に保存されている(継続的に保存される!)。他人のデータと一緒に管理されているらしい。セキュリティの面で心配する人がいるかもしれないが、種々雑多な画像データの“混沌”の中に散在する形で置かれているので盗まれる心配はない。これは、プログラミングの世界で使われている“ハッシュ(Hash)”と呼ばれる記憶方式とよく似ているように思う。

 ハッシュ領域には、どのようなデータ型のものでも置くことができる。それを取り出すには“キー”が必要で、それぞれのキーがそれぞれのデータを指し示している。このキー自身もハッシュの中に保存されているので、キーを知っていれば誰でもデータにアクセスできる。この考え方と全く同じであることに気が付いたのである。G領域は“Gハッシュ”と呼んでもよいのかもしれない。

画像データの利用法

 たとえば、


timelessEdition.jpg

という画像をG領域に置いたとする。そのデータは以下の文字列 「https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEizWVRoqL5wjQHgACTw3SmgYzo3lKnLrwc_RQbAxBJIJFPml6AqDKcfzNsigtL1CcfMu2WP4PbMvgbSj2pwrczTiM7IrpRs0TDcF4_uXqzStkd3KBHg5kuAgpkPUMszioZXlG060Y5VQU4/s1600/timelessEdition.jpg
 を用いて取り出すことができる。

 ・文字列の前半部分 「https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEizWVRoqL5wjQHgACTw3SmgYzo3lKnLrwc_RQbAxBJIJFPml6AqDKcfzNsigtL1CcfMu2WP4PbMvgbSj2pwrczTiM7IrpRs0TDcF4_uXqzStkd3KBHg5kuAgpkPUMszioZXlG060Y5VQU4/
がキーである。これさえ知っていれば、誰でも、何時でも、何処にいても、恒久的に取り出すことができる。
 ・文字列の最後の部分
s1600/timelessEdition.jpg」 の「s1600」は取り出すときのサイズ(横幅)をピクセル数で指定する場所である。

  大きさ    サイズ(ピクセル数)
 「小」     200
 「中」     320
 「大」     400
 「特大」    640
 「元のサイズ」 1600

・“/”で区切られた最後の部分「timelessEdition.jpg」は、画像をアップロードしたときの名前になっているが、取り出すとき新たな名前に変更することもできる。ただし画像の種別(jpg, gif,...等)は変えられない。

つまり、

   <キー>/[s<サイズ>/<名前>] 

の順に指定する([ ] はオプションの意)。


3.ソーステキストの保存

このようにG領域に置かれた画像データは半永久的に残せるが、それを使ったソーステキスト(HTML形式のファイル)も保存しておかないと意味がない。

テキストはブログ上に残す
 HTML形式のソーステキストはブログ上に投稿して残すことにする。グーグルがG領域を半永久的に残す覚悟なら、当然無料ブログも残されるであろうと考えた。

 しかしブログによる投稿では、限られた機能しか使えずアルバムをそのまま保存するのは難しいことが分かった。

 ブログの投稿では、投稿欄に書き込めばその都度HTML言語に変換されていく。実はこの方式が問題なのである。実に使い難い。
 投稿内容が完成したら初めてHTML化するのではなく、その都度変換されていくので投稿画面上で修正を繰り返していると、その履歴がそのまますべてHTML画面上に残される形で変更が積み上げられていく。

 その結果HTMLプログラムは修正の上に修正が積み上げられた悲惨な状態になる。HTML部分だけを見ても何が何やら分からない混沌としたプログラムになってしまう。それでもうまく表示できれば問題ないのだが、試しにプレビューで表示してみると、投稿画面で意図したものとは似て非なるものになっている。途中に大きな空欄が出来ていたり、文字が小さかったり、大き過ぎたりするので修正しても意図通りにはならないことが多い。修正が効かないのである。仕方なくHTMLプログラム上でそれらしき所を見つけて強引に修正することになる。

 投稿画面上でいろいろ修正を重ねるのは混乱の極みであることが分かった。修正の必要がないしっかりしたものをあらかじめHTML言語で作っておいて、それをHTML画面に直接張り付けてしまう方法が一番効率的である。

 もう一つの問題は、ブログの特性からくるものでHTMLテキストが1ページ分しか投稿できないことである。私の写真アルバムは複数のディレクトリを利用して階層構造になっており複数のHTMLテキストから成り立っている。つまり複数ページなのである。

 そこで、ブログに投稿するために無理やり変換し1ページのHTMLテキストに作り変えることにした。それをHTML画面に張り付けたのだが、ブログが処理するには複雑過ぎて拒否されてしまうことが分かった。ブログ側が設定したテンプレートの枠内で動作するように収めなければならないので制約が付くのは理解できるが、簡単な記述のHTMLテキストしか受け付けてくれないようである。しかも、採用したテンプレートごとに様子が異なるのである。

 そこで、できるだけ広くHTML言語を受け入れてくれるテンプレートを選び、その範囲内で記述する簡易版のHTMLテキストを作ることにした。表示は稚拙でも無いよりはましである。私が表示したい凝った記述のHTMLテキストは、HTML欄ではなくテキスト欄に隠して保存することにした(将来これを利用できる時代が来ると信じて)。文字列は白字で見えないようにする。

 以下に例を示す。

例:「写真をネガから復元する」
 
昔の写真をネガから復元する
 が簡易版である。

 正式版はその後ろに書き込んであるが白字で隠されている。この場所をドラッグしてコピーし、HTMLテキストにすれば私が表示したかった写真アルバム(これはサンプルですが)を見ることができる筈である。簡易版との違いを比較すると面白いかもしれません。

テキストを画像に埋め込む
 正式版を白字で示すという方法は、場所を取るのであまり美しくない。文字のフォントを最小にしてみたが差はなかった。そこで、どうせブログ外でしか表示できない代物だから、コンパクトにまとめて残すことができないかと考えた。

 実は、画像データがG領域で半永久的に残せると分かったとき、私は gifファイルを活用すればテキストも残せる筈だと確信した。gifファイルの設計経験のある人なら誰でも知っていることだが、gifファイルにはコメントを記入する場所が用意されている。試しにそこにテキストを記入してみたところ、半角文字で約3,300文字分くらいまでは書き込めることが分かった。テキストを分割すればいくらでも書き込む余地は残されている。

 試行したものを例示する。

例:「テキストを画像に組み込む」

butterflywithText.gif の例

興味のある方は以下を参照してください。
テキストを画像に組み込む

 しかしgifファイルの扱いに不慣れな人は利用できない手法だから、これでは実用にはならない。最近は、画像ファイルにウイルスを埋め込む悪い輩もいるから、それと同列と見做されるのは避けたい。

個人情報の扱い
 最後に、個人情報の扱いについて触れておきたい。
 前述したように、写真アルバムは将来重要な情報源となり得るから、その写真アルバムに個人名をフルネームで書き加えたい。しかし個人情報保護法に厳密に従うと、無暗に個人の名前や写真を(本人の承諾なしに)インターネット上に公開するのは憚られる世の中である。これは本人の年齢に関わりなく尊重されなければならない。これからは「名前を公開したくない人は申し出てください」という注意書きを必ず添えることで許してもらおうと思う。

 この法律のために昔の学校時代の友人と連絡を取ったり、その消息を尋ねたりする手段がなくなり困っている人が多い。そういう現状をよく知ってほしいものである。我々の年代では、むしろお節介でも名前を書き添えてあげた方が良いように思うがどうであろうか。それも、写真画像の一部として書き込むのではなく「検索可能なテキスト」として残すことが特に重要なのである。

4.最後に

まだまだ不完全ですが、この方式が広く使われるようになることを願って、テスト的に「情報保管庫」を作成したので参考にしてください。

 目立つように「永久保存」などという表現を用いてきたが、グーグル社のやり方を利用しているので、当然のことながらグーグル依存と言うべきであろう。

 これまで蓄積された大量のデータを、グーグル社は単に無料サービスだからと言って突然止めるようなことは道義的に許されないと私は考えている。グーグル社はそんなことはしないだろうと信じての提案である。

 上記ブログ上では“ほぼ永久保存”という表現にしてあります。■


2017年1月2日月曜日

「ソフトウェアと定年」(初版原稿)

── 社内掲示板に投稿した初版の原稿
 
古い資料を整理していて、以前書いた「ソフトウェアと定年」というエッセイの初版がプリントされたものを発見した。これはテーマが余りに私的なものだったので、これまで社外のインターネット環境に掲載したことはない(一部手直しして『ソフトウェアの法則』(中公新書)に掲載)。しかし当時の青梅工場のことが記述されているので懐かしく思いながら読み返してみた。
 東芝の不正会計問題を発端とする一連の騒ぎの中で東芝のコンピュータ開発の由緒ある拠点(青梅事業所)は売却されてしまった。この地で会社生活のほとんどを過ごしてきた私は、単に「さびしい」というような単純な言葉では表現できない程の無念の思いを抱いている。青梅工場への鎮魂の思いを込めて、ここに掲示することにした(テキストファイルは存在しないので画像化しました)。

(読みにくい場合は、[こちら]を参照してください)


2016年12月31日土曜日

私のボケ防止法

── 生活習慣の見直しと脳の活性化


 最近の私の最大の関心事は、如何にしてボケないようにするかということである。インターネット上には、認知症の初期症状を検知できると称するサイトが沢山存在する。私も一度試したことはあるが再びやろうとは思わない。傲慢だと言われるかもしれないが、健常者には馬鹿馬鹿しいほど他愛のない検査に見えてしまうからだ。定期的に検査して自己診断したい人には向いていないと思う。

 私が必要としているのは、毎日続けられてボケ防止に効果があり、かつ「自分はまだボケていない」という確信あるいは自信(たとえそれが誤解であったとしても)を与えてくれる類いのものでなくてはならない。つまり、検査ではなく予防効果があるもの(あるいは、ありそう見えるもの)を求めているのである。


▼アンチエイジング
 認知症は老化と密接な関係にあるからアンチエイジングの努力をすることが予防法としては一番効果があると言われている。最近の医学の教えるところによれば、歯周病、糖尿病、高血圧症などのいわゆる生活習慣病への対策が重要であるという。私は、そういう知識がまだ普及していない頃から自然にやっていたことが多いので、今は大変に助かっている。たとえば、

(1)歯のみがき方
 企業人だった頃は、会社で定期的な歯の検診を受けることが義務付けられていたので、検査と同時に「歯のみがき方」の指導を受けていた。そして何度指導されてもうまくできなかったみがき方が、やっと身に付いてきて自らできるようになるまでに数年を要したと思う。定年後の今でも、そのとき習ったみがき方を実践している。

(2)食事での習慣
 食習慣も結婚後はすっかりと変わった。甘味料の多い飲み物は避け、コーヒー類には砂糖など絶対に入れないようになった。その結果、自然に糖質制限の習慣が身に付いてきたように思う。相変わらず甘い物は好きだが、特別なときにしか食べないようにしている(ホントかよ? いや、たまには孫と一緒になって菓子のつまみ食いなどしてますけどね)。
 ただ、食習慣の内「よく噛んで食べる」という最も基本的で最も重要な習慣だけは、せっかちな私には無理で未だに身に付いていない。「空腹は最良のクスリ」と言われているように、空腹の時間帯が一番身体には良いらしいのだが、我慢できずにすぐ間食をしてしまう。困ったものである。

(3)定期的な運動
 昔から休日になると仕事のことは忘れようと思い運動をする習慣になっていた。それがストレス発散に効果があると知ったのはずっと後のことである。
 最近は朝起きる前にベッドの上で20分程ストレッチをしてからゆっくりと起き上がる。それから洗顔をして、ラジオ体操を含むストレッチ体操を更に20分程やっている。
 午後は天気がよければ多摩川の河原で1時間以上ウオーキングをする。昔はサイクリングやジョギングが中心だったのだが、今では女性にも追い越される程のゆっくりとした歩みになってしまっているのが口惜しい。

▼脳を使う
 昔から身に付いている生活習慣に関するものだけなら楽なのだが、頭を使ってのボケ防止も重要である。そのためには常にアンテナを高くし、その方面の新しい知識を仕入れることが重要になる。したがって新しいことを学ぶ意欲がなければならない。

 世間では、新しい「脳を活性化する方法」がいろいろと紹介されているが、私はそれらを試す前に、自分が継続して実践できるかどうかを主眼に評価することにしている。そして続けられそうなものだけを取りあえず実践してみる。継続してできそうもないものは最初から諦める。
 現在続けて実践しているのは、以下のようなものである。


(1)運動をしながら 1,000から 7 を引き続ける計算をする
 これを外出時に歩きながら、あるいは運動中に声を出して行う。声を出してやることが重要なので、通りすがりの人に“変な人”と思われないよう小声でやる必要がある。十の位と一の位を常に意識して計算を続けながら、同時に周囲への注意も怠らないようにする。これが結構難しい。隣人に出会って挨拶したり、見知らぬ人に道を尋ねられたりしたときなどは計算が続けられなくなってしまう。信号に気を付けたり、自転車を避けたりと計算の妨げになる出来事があとからあとから起こってくるが、計算を惑わされないよう最大限努力する。場合によっては一時計算を停止する必要に迫られることもある。再開するには直前に発した声が“耳に残っている”のでこれを活用するとよい。

 いろいろな事に細かく気を配らねばならないので自然と頭をマルチで使う能力が養われる。外出時の往路と復路で一回ずつ計算が成功裏に終了できれば「良し」としているのだが、これがなかなか難しい。最近やっとうまくできるようになってきたが、始めてから実に3年以上が経過している。


(2)2桁の加減算
 脳の前頭前野は、老化とともに最も早く機能低下する部位だと言われているから、ここを鍛える必要がある。それには1桁でよいから加減算を繰り返すとよいそうである。そこで私は、プログラムで乱数を発生させ沢山の問題を自動的に作り出すことにした(何桁でもできるように作ったが、とりあえず2桁にしてある)。このプログラムを使って50個の問題を使い古しのA4用紙の裏にプリントする。月の初めにそれを30日分作っておく。


(加減算の例)

 そして、毎朝コンピュータを立ち上げるときの待ち時間(*1)を利用して計算することにしている。右側に答が印字されているので、答の照合も含めて3分程で終了する。 

【注】(*1)Windows は、コンピュータの立ち上げ時間を節約するため標準では簡易版のシャットダウンが使われている。私はあえてそれは使わず、前の晩にコンピュータを閉じるとき[シフトキー]+[シャットダウン]で完全なシヤットダウンを実行しているので、毎朝約3分弱の再起動が必ず実行されるように設定されている。
(3)フリーハンドで円を描く
 加減算の問題が全問正解だったときは、何時の頃からか私はその用紙の余白に丸を描くようになった。漫画家の故手塚治虫氏は生前「マンガのアイディアはいくらでも出てくるが、年とともに円を綺麗に描けなくなった」と述べていたのを思い出した。それを真似て私も円をフリーハンドで描くことにしたのである。余白があったので、私は毎回3つの円を描いているが、うまく描けたときは日付けを記入し記録として残すことにしている。年とともに円が少しずつ歪んでいくのではないかと恐れている。


  (うまく描けた円の蒐集)

 毎日キーボードを使って文章を書いていると、字がうまく書けなくなってくる。図も同様である。円がいびつになってきたら、ボケの兆候が出てきたと覚悟せねばなるまい。


(4)文章を書く
 ボケ防止には日記をつけるとよいと聞いたことがある。私には日記など無理なので、その代わりに「要するに毎日文章をつづればよいのだ」と考えることにして、知人にこまめにメールを書くことで代用することにした。

 最近は Facebook 上でのメール交換や投稿に重点を置くようになった。しかしメールの文章というのは、くだけた感じのものが多くて内容も浅い。それに対しブログへの投稿なら少しは真面目に取り上げるべきテーマに対し考察を深めるようになる。全体の構成も考えて書く必要があるから、メールよりもはるかに頭を使う必要があると考えている。

 月に一度は、ホームページ(Knuhs の書斎)にエッセイを掲載することにしているのだが、最近は筆が鈍りがちである。やはり老化すると文章を書くのが面倒くさくなってくる傾向があるようだ。心して努力すべきであろう。


(5)名称忘れへの対策
 ボケは着実に我が身に迫ってきている。先ず、特定の物の名前がすぐには出てこなくなる。人の名前も出てこない。「そんなのボケではなく、年寄りなら皆同じですよ」と慰めてくれる人もいるが、そう言う相手も年寄りだから、多分心の中で「ボケだと認めたくない」と思っている人の意見なのである。真面目に信じてはいけない。

 そこで私は、名前が出てこなかったら直後に思い出す努力をし脳内の切れたネットワークの線を繋いで直ちに修復することにしている。どうやって名前を思い出すかと言うと、インターネット上で検索するのである。もちろん「あれ」とか「あれあれ」とキー入力しても答えは得られません、絶対に!(*2)。しかし思い出すヒントになるようなキーを複数個うまく組み合わせて入力すれば、リストアップされた記事の項目と説明文だけから結構思い出せるものである。
 忘れていることに気付いたら直ちに検索するのがコツであって、後でやろうと思ってはいけません。後でやろうと思った時には「何を忘れたのか」さえも思い出せないから。   

【注】(*2)試しに、本当に「あれ」で検索してみるとよい。そういう「あれあれ検索」が可能なプログラムを開発してほしいものだ。高齢者を助けるためのそういうアプリの開発に成功したら、貴方(女)は間違いなく大儲けできるはずですよ
 要するに私は、(4)で言及したようにボケ防止の目的でこのエッセイ書いている。そのエッセイで取り上げたテーマが、たまたま「私のボケ防止法」だったという訳である。そして読者諸兄はそれを読まされている、ということになります。まだまだボケなどには無縁の方々にとっては、真に申し訳ないことだ思っております。■

2016年12月26日月曜日

クリスマスの朝

 クリスマスの日の早朝、ベッドの中で半分眠りながらラジオを聴いていた。アナウンサーが「私は何時も最後の曲にはこれをかけることにしています」と言っている。曲名紹介の後、曲が始まった(5:50頃)。クリスマスの歌だ。ちょっといい歌だな・・・ などと思いながら聴いていた。

 しかし段々と盛り上がってきた。何だこれは! 最後の方になると、男性歌手が叫んでいる。「メリー・クリスマス!」と叫んでいる。さだまさしの声のようだ。何んという曲だろう。

 最後にアナウンサーが曲名を再び言うだろうと耳を澄ませていたら、突然コマーシャルになってしまった。残念。

 何んという曲だろう。もう一度じっくりと聴いてみたいものだ。
 そうだ、radiko に「タイムフリー」という機能があると聞いている。これでもう一度聴いて曲名を確かめることにした。

 その結果、さだまさしの「遥かなるクリスマス」という曲であることが分かった。知らなかったなぁ。クリスマスの時季しか流れないからであろうか。素晴らしいクリスマスの朝であった。